七十一冊目『文章読本』
「府雨の読書日記」七十一冊目『文章読本』
『文章読本』
著 谷崎潤一郎
体調を崩して、読むものも読めず、書くものも書けず、とりあえず休むことを主務として、何日か経って、家にある本で何か、と思いこれを手に取りました。
静養に小林秀雄の関連の文庫(大岡昇平のものと江藤淳のもの)を用意したのだけれど、なかなか読み進められませんで。
聴く音楽も書く小説も、やたら量だけ増えて、プレイリストの整理とか後の推敲が大変というか、そういうことでもなく、ただ生き延びることに主眼があって聴いて書いて、そういう中で何かの本でも読了したというのは、実にホッとします。
この日記も、サボろうかと思ったのですが、日曜でもまだ十六時で、まだ。まだ大丈夫だと言い聞かせて書いています。
文章読本という名前で、僕がその文章から読み取ることはたくさんあるようで、ほとんどない。
僕は読める本を探していただけで、何かを身につけようとしていたわけではないからです。
でも、自分の文章が、和文の優美さに欠けることを悔やむことはあります。自分で読んでもつっかえるのに、どうして人が読めるのか。それは最初からわかっているのですけれど、どうしても書きたい気持ちが先走って、どうこうすることもできず、気づいたらゴツゴツした構造物が出来上がっている。
それに関する責は僕にあるし、僕はわかっていないわけじゃない。わかっているわけでもないけど。
大谷崎の文章で読んだことがあるのは「刺青」『細雪』『陰翳礼讃』くらいで、文学を志すものとしては残念な有様ですけれど、そこに一冊差し添えられたことは、鬱屈に耐える自分としては、上々なのかなと思います。
でも思ったのは、わかりやすさ、平明さというけれど、それを達成するのはわかりやすい言葉遣いだけでなく、適切な語彙の配置であると。痛感します。
同じ言葉を使うのは、なんとなくではありますが、敗北ではないかと。
言い回し、癖、文体だけが常にテーマを支え、文学をなすのではなく、そこには面白さと退屈させない語彙力が必要で、新しい作品を書くというのはその人にとって(僕にとって)新しい言葉を巡る旅なのだと、心から思います。
表題やその文学の中の言葉が作品の行末を決めるというのは谷崎も書いていましたが、小品を書くつもりで、気づいたら大作になっている時は、その文章で働く語彙が、見事に活躍している。
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体調が悪いので、この辺でお暇しようかと思います。本を読む時間が苦痛と幸福を半ばするのは、感情が一つの性質だけに終始しない、複雑な機構なんだということを感じるいいきっかけです。
昨日土曜は九時に寝て、起きたのは十時。本当に参っているのか。でも一冊読んだしな。みたいな。




