六十八冊目「ラストエンペラー」
「府雨の読書日記」六十八冊目「ラストエンペラー」
「ラストエンペラー」
音楽 坂本龍一
一月十一日に、東京国際フォーラムのAホールで、「ラストエンペラー」のシネマコンサートを観ました。
早稲田の学園祭に行った時に、地下鉄の早稲田駅で大きなポスターの広告があり、同僚と相談して、四人で。
僕は溥儀の皇帝即位の音楽で感涙していたのですが。序盤も序盤。
清末民初の時代は、世界史の中で最も好きな時期ですけれど、ラストエンペラーは観ていなかった。映画を観る習慣がないものでして。
神保町の古本屋で、愛新覚羅溥儀『我が半生』を買って、本棚に差し込んでいたのを、いそいそと取り出して読む次第です。
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皇后の溥儀への裏切りについて。
愛情が豊かで、溥儀を思うが故に、愛されないことへのわだかまりが不倫を生んでしまう。
子どもが欲しいという皇后のせりふは、日本のありとあらゆる場所で生まれている悲劇の象徴で、男は「お前はアヘン中毒だから」とかいう理由で妻に冷たくする。
アヘン中毒なのは、愛の欠落を埋めるためです。
冷たくされた妻は、愛情の大きさ故に、矛盾した復讐心を捨てきれず、不倫してしまう。
どこでも一緒なんですね。こわこわ。
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紫禁城にせよ戦後収容された更生施設にせよ。
自由に外に出られないのは、溥儀の場合、自分の意思ではなく立場がそうさせていました。
それは、皇帝という孤独な存在を、悲劇的にする最高の舞台装置で、見聞きするものが制限されることで、靴紐が結べないこと、服すら脱げないことを、当たり前のものとします。
関東軍が作った満州のハリボテの城に入れるのは、彼の人柄も知性も関係ない、彼の血の利用価値から来るものです。
何もできない人を推戴することで、関東軍は権力を簒奪し、溥儀は紙にサインするロボットになる。
名ばかりの皇帝という立場への諦め。
それは、ただ愛があればよかった皇后との関係を、塗りつぶしてしまう悲劇です。
家庭教師のジョンストンが、「結婚するということは家族を持つことで、そこでは自由に物事を決められる」のだと言います。
溥儀は野心を持って言います。「統治したい」と。
人の幸せは位人心を極めることにあらず。愛を育むことにあるという、僕にとっての明確な教訓です。
そういうのも、忘れてしまうのでしょうか。いやだなぁ。
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恋愛の風景も、結婚生活も、(側室がいるという謎な世界観ですが)ありふれた、特別な奇矯さのない、わかりみの深いものです。
好きな人を顔で選び、その人と結ばれ、不和ののちに別れる。
喜びの瞬間と生活の持続の対比が、皇帝にとっても僕と同じように展開していくのだと思うと、ため息が出ます。
まあ、皇后が不倫するのは、そうだろうなと読めていましたけど、それはどちらかというと溥儀に責めが帰されるような気がします。
男的には「後ろから刺すなよな」というところでしょうが、女性にとっては自分への寵愛が問題なのですから、関係ありません。
ちなみに僕は、後ろから刺す人が嫌いです。その人が単なる「もの」になる感じがするし、そういう自分の心の動きも、自動的にインプットされていて嫌です。感情が働かなくなって、冷たくなるのですが、そうしようと思わなくてもそうなってしまうんですよね。不思議。
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しかし、そう思うと学校って紫禁城みたいですね。
そこから出たい。
しかし出ると世間の風は冷たい。
自由というのが果たしていいものなのかどうか、近代以降の、封建社会が消え失せた世界が、果たして豊かなものなのか、少し戸惑いました。
世界はどんどん良くなっていると、スティーブン・ピンカーなんかは言いますし、それに反対はしないですが、あの「家」と「土地」に全ての人が縛られた生活を、しばしば想像します。
懐古主義じゃないですけど、家族や国を矮小化する教育を受けて、今、それをわざわざ外科的に摘出する必要があったのかと、思うようにもなってきました。
それは伝統への回帰という文脈ではなくて、単純に家族に愛されることへの、情景のようなものなのかもしれません。
自由とはかくも虚しいものかと、述懐する人は多いので。
自由を原理に据えたことで、愛を自由で説明しなくてはならなくなりました。
愛を説明することなんか、わざわざする必要もなくて、単に理解していればいいだけのことなのに。




