六十六冊目『ベルクソン入門』
「府雨の読書日記」六十六冊目『ベルクソン入門』
『ベルクソン入門』
著 村山達也
本書は、代官山の蔦屋で2025年の年末に買いました。
ベルクソンは、朧げながら小林秀雄が取り上げていたような気がして、なので少し遠ざけていました。
小林秀雄は僕のセンター試験の国語の点数を爆下げさせた張本人ですので。
入門と書いてあって、大学の先輩が、「この界隈では原書しか読めない人もいれば、解説書しか読めない人もいる」とおっしゃっていたのがなんとなく思い出されます。僕は間違いなく後者ですが。
面白い部分を敷衍してもらえて、自分の興味に従って読み進めることができて、いい本だったなぁと思います。
この著作を読む中でいくつか確信したことがあります。一つに、僕は「哲学の方法論」を懐疑しているということが、まず挙げられます。論を例証したり、つまらない説明をすることに(本書がという意味ではなく)、最近辟易していて、哲学とはそういうものだ、と思っている人と話すのに、かなり疲れる。
本書で紹介されていたベルクソンのモチーフは、もちろん僕も共有するものですし、特に前半の感覚質が物体に宿るかという問題に関しては、僕の直感とそこまで齟齬がない説明で、少しほっとしました。
僕は物そのものが持つイメージは受け取り手が違えば変わるとはいえ、物そのものにその性質が宿っているという立場を強く主張しています。
美学的には、無人島にあるピカソの絵は芸術的価値が「ある」という立場です。
異論はあると思いますが、美を説明するのに、主観を持ち出すのは、美そのものをわかっていないような気がします。
ただ、本著のアトモスフィアに関しては、何か違うなと感じます。
論証のスタイルは、個性的でどれも過去の哲学者とのやりとりがあることはわかります。でも、なぜかいつも小林秀雄の顔が浮かぶのです。というのは、冗談ですが、説明があまりにもうますぎるような気がする。
それは僕にとっては常に警戒の対象です。
基本的に、整合性のある説明を、僕は常に警戒します。自分と同じことを考えているように見えるとしたら、それは自分にとっての危機でもあります。
基本的に新しいことは不整合の中で産声を上げます。僕は過去の論証をなぞりたいわけではありません。だから、過去の哲学者が言っていることを聞いて見て、安心するということはまずない。
それは、新しいことを発明したいという意味ではなく、「違う人間なのに、同じことを考えること」は、ほとんどの場合なく、それが生じる時、つまり「これこれのことはハイデガー、これそれは孔子」というようなパッチワークをしている時は、単に人に見せて「恥ずかしくない」哲学的態度を養って説明しているだけだからです。
矛盾していないことを誇示するのは、言語的な操作でしかありません。意味や内容が一様ではないのに対して、言葉は矛盾しません。
理屈の世界は狭く、繰り返しと歴史が常に重視されます。それ自体は、学術的な誠実さと言い換えられるかもしれません。ただ、僕には学がないので、その重要さがいまいちわからない。
重要なのは「間違っていないこと」ではないと思うのです。
というか、本書にも、それに類することがたくさん書いてありました。僕は年末の代官山T-SITEで、「なんか自説を確かめられそうだぞ」と思って、この本を買ったのです。
その結果は前述のとおり。危機感を覚えました。もっと矛盾しないと哲学から離れられないとは!




