六十四冊目『なぜ人は締め切りを守れないのか』
「府雨の読書日記」六十四冊目『なぜ人は締め切りを守れないのか』
『なぜ人は締め切りを守れないのか』
著 難波優輝
難波さんの前著『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』は、最後まで読んで、僕は面白いと思いました。この本もそう。
ただ、装丁というか、開きにくさ、紙の明るさに、僕はすごく読みにくさを感じました。余白の取り方も、もったいなくて、なんというか「美味しくなかった」。食事が良くても皿はだめ。
緑の表情のカバーとかもなんかつるつるしている。ムササビにして布団の脇に置いておくと、ムササビが閉じる。うむむ。
内容は、とても啓蒙的でキャッチーですけど、タイトルに引っ張られた感は否めない。
前にも書いたかもしれませんが、難波さんを、同世代の人間として僕は、常に誇らしく、応援しているのですが、それとこれとは別な気がします。
ツイッターとかで悪辣な批判を受けることが当たり前な世の中で、言論の柔らかさを保つことは、僕らにとっては必須ですが、それがまた一つの硬さを生み、また僕たちを縛っていきます。
矛盾のない調和的な論説を書くとしても、いくらそこに強い主張があったとしても、文体のやわらかさや説得的な論旨が却って議論を薄めてしまう。
柔らかさは常に求められていて、誰かの気持ちを踏み躙らない様に注意すべきではあります。
でも非の打ち所がない論旨は誰か(ナナヲアカリだったか?)が言ってましたけど「誰にも響いてない」ことにも繋がりかねない。
アイデアを書くこと、には力点があっても、それが届くとは限らないということです。
一つのアイデアを共有していくスタイルは、僕たちの言論空間でありふれたことですが、アイデアが引きずる形でのライティングは、論旨は通っていても、腑に落ちない。
賛成や反対というレベルでの意見を喚起しないのも、一つの「手」ではありますし、僕らの世代はそれを得意としてきました(僕は得意ではありませんけれど)。
それはすなわち書き手自身も、自分の意見に賛成や反対を明確な形で表明していないことがある、ということです。
批判されることを恐れるがあまり、あるいは、批判という形の批評を骨抜きにするために、そういう文章を書くことがあります。
常に何かを気にしながら書くのは、当たり前なのかもしれません。それが配慮であり、プロの仕事なのかもしれません。不安定な自説を引用で支えるのも、テクニックではあると思います。
でもそれは、大きな海から水を汲むのではなく、小さい井戸から水を汲む、スケールダウンです。
それは、僕たちの世代の思想スケールの縮小を、物語っているような気もするのです。
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読みやすくて、喉越しもいい本でしたけど、もう少し泥っぽい、スモーキーな味わいの文章を、今度の難波さんの著作には期待します。
紀伊國屋での対談を聞けなかったのは残念でした。その日は同僚と東京外大の学園祭に行っていたもので、興味はあったのですが……。




