六十三冊目『反知性主義者の肖像』
「府雨の読書日記」六十三冊目『反知性主義者の肖像』
『反知性主義者の肖像』
著 内田樹
自由に考えることと、既成の枠組みを疑うことは、僕が高校で習った「ごく当たり前のこと」で、僕の大学生活で、それを念頭に置いていない知り合いはおらず、そういう自由が豊かとも、また自由だとも思っていませんでした。
言いたいことが言える社会だと、心から信じていますし、それが奪われることは、教師が恐れるようには起こらないだろうと、昔から安心しています。
僕らから言論を奪うのは、自分にとっての当たり前を構築できなくなる言論空間で、それは意思決定や選択が無謬のまま完成するという盲信です。
答えのないことを考えている間の煮え切らない紆余曲折に、単に「イエスかノーで答えてください」と迫る時。当然ながら立場というのはゼロかイチではないのに、本来的に全ての事象は「イエスかノー」で答えられると信じている人に「それはちょっと変だよ」と親切に言ってあげられない時の悲しさ。
内田樹の文章は、僕たちを鼓舞してくれるいい文章です。いい文章ですが、内田樹の言う「反知性主義者」に、僕らはなんと声をかけてあげたらいいのか、読んでも全くわからないのは、少し悲しいことです。
隠れた問題は「一方か他方か」という選択ではなく、矛盾を生きるということが難しい人を「反知性主義者」と呼んでいいのかということです。
反知性主義者は、少なくとも苦しんでいるはずです。承認されない自分を慰めるために他人を攻撃し、外国語が話せないためにナショナリズムに走り、主観的には貢献しているつもりだから高齢者への社会保障を妬む。
としたら、どうして彼らを論敵にするのでしょう。反知性主義者というのは、普通の人で、言ってしまえば人間関係のネットワークから疎外された孤独な人です。
普通の人が生きていくのが難しいほど疎外が当たり前になった社会で、内田樹のように豊かな人が、貧しい人を攻撃するのにはいつも疑問を持ちます。
温かい仲間がたくさんいるのに、ツイッターでしか生きられない人をなんであんなに簡単に攻撃してしまうのでしょう。仲間に入れてあげればいいのに。
でも、たぶん、友達や仲間というのは、現代的な意味では味方であり、それ以外の人は敵なのでしょう。
恥ずかしながら、僕はほとんどの人を軽蔑して生きていますが、それは概ね「自分にとって大切な自分」か「自分以外の人」かという極めて独善的な構図です。
他人に親切をするのは、単に僕が他人を形式的には区別していないという僕の「お気持ち」に依拠しています。
他者は押し並べて他者。人は押し並べて人。すごく単純な原理で、どこか無機質ですが、人を敵か味方に大別するよりは、まだマシな気がします。
反知性主義が蔓延っているというなら、それはこの国や世界が貧しくなっているということです。
自由な思考は、基本的に教育によって植えられる後天的なものです。三十歳くらいまでに「豊かな」教育を受けられなくなっている。その結果経済的にも貧窮する。
教育と所得には相関関係がありますから、豊かさと貧しさの軸を教育と経済力に結びつけるのは間違いではないはずです。
持っている人たちが少数派だという事実が、多くの人が貧しく、反知性主義に頼らざるを得ないことを、如実に物語っています。
そこには愛する家族も、頼れる友人もいなくて、ひたすらSNSに自己を投影する。それは、苦しいことですし、社会の脆弱性でもあります。
自分が生み出したものが特別な価値を持つと、なんとなくわかることが、巡り巡って反知性主義を抑制することにつながりますが、特別なものを生み出せる人は、現在の世の中では限られていて、少数派になってしまう。
内田樹のような少数派の実力者(言い方がよくわかりません)は、トランプに反対するアイビーリーグのエリート大学教授と同じで、力があり、価値を生み出し、敬意の眼差しを向けられる。
もし反知性主義者が、そういう立場にいれば、反知性主義には、傾倒しなかっただろうなと思います。
価値を生むことができるというのは特権で、内田樹は特権階級なのだという結論が、ここから導き出せるのではないかと思うのです。
私淑する内田先生には申し訳ないのですが、それが反知性主義者が見る知性主義者への妬みと憎悪の理由だということは、明らかではないでしょうか。
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自由が特権階級によって享受され、反知性主義者が真の自由を享受できていない不平等は、忘れてはいけないと思います。
反知性主義者の苦しみには、本来的には同情するべきです。こういう口調は、もしかしたら許されないのかもしれないですけれど。




