六十一冊目『加速主義 増補新版 ニック・ランドと新反動主義』
「府雨の読書日記」六十一冊目『加速主義 増補新版 ニック・ランドと新反動主義』
『加速主義 増補新版 ニック・ランドと新反動主義』
著 木澤佐登志
この本は、かなり読みやすい上に、好感が持てるのは、引用と地の文のバランスがいいことです。
リベラルの自分が、リバタリアン的文章を読むのは、怖いもの見たさみたいなところがありますが、この種の文を読んでいつも思うのは、特別な人しか人じゃないみたいなロジックが目につくな、ということです。
いわゆる「普通」を批判する割に、思想的には貧弱で極端な人が、普通の人以上の何を生産しているのかわからないと、いつも思います。
大富豪の富はピラミッドの下層から上層までの人員から吸い上げられ蓄積されたものであって、大富豪の人格を象徴するものでも、能力の物差しでもない。
また、リバタリアンを標榜する人の中には、立場からするともっと「現実的」になった方がいいと思われる人もいます。何かの言い訳をしないといけない、地盤の軟弱な経済状況の中で、言論的に叩ける人がいればとりあえず叩くというような。
そういう人たちは、自分を特別か、少なくとも普通じゃないと思っていますが、そこで争うのは分が悪いはずです。思想的な「一貫性」は、往々にして実利を損なう。何がしかの具体的な例が、「普通じゃない」彼らの手元にはない。
僕は別に子どもを産み育てる人が、道徳的に優れているとも、優れていないとも思わないですけれど、彼らが子どもを育てる人の凡庸さに言及するのは、実にもったいないことと思います。
僕は、家族が僕を裏切ってもいいとすら言える状況で、家族が僕を切らなかったことを、よく覚えています。僕はその時、家族を「他人」だと思っていたのにも関わらずです。ありがちな厨二感ではありますけども。
裏切らないことは「凡庸」でも「普通」でもないことを、僕は身に染みて知っています。
とすると、そういう政治的立場は、親にどう扱われたか、どう遇されたかという「トラウマ」的なものに左右されるのかもしれません。とすると、あまり物語にならないかもしれませんけれど。
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リバタリアンの言うことは、かなり一貫しています。そこは、常にそうです。
でも、論理的に一貫していないことを、どうして否定するのでしょう。引きこもりの弟のためにお金を家に入れるのは、個人主義の観点からすると一貫していないし、僕も別に何かの信条があってそうしているわけではない。
やりたくないことをやらないという首尾一貫性は、かなり徹底的で、僕は悪いとは言いませんが、その人以外の誰かを困らせる結果になる。
周縁に面倒を押しつけて、自分だけ綺麗なのは、その人が世界の中心にいるなら正しいのかもしれない。もちろんそれは「ほんもの性」つまりなんらかの天球秩序の中に自分を位置づける昔ながらのやり方とは異なります。
子どもを育てている親を凡庸だと思うのは、子どもであることが多い。
つまり世界の主人公は自分であり、中心に自分がいると、思い続けられる。でもそのようにその人を子どもでいさせ続ける豊かな仕組みを作ったのは、おそらく当の子どもの能力ではなく、凡庸な親の庇護ではないかと思うのです。
もっと言うなら、力は凡庸な親の手元にあり、親は凡庸ながら世界を支え、柱となり空が落ちてくるのを防いでいる。それは、神話的な力です。
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自分を所有しているのは自分だというナイーブな感覚を持っている人は、感覚に現実を合わせようとします。
最初の前提が違うと思う。
自分を所有しているという観念が、そもそも適切でない。自分を外部化しているという点で。あるいは、完全に所有することなど不可能だという点で。
完全に所有できないことは「自分と自分が」一致していたり不一致だったりする現実によって明らかです。もっと言うと、他者に自らの一部を委ねている状態は、不完全でも、不自由でもなく、現実の事実であり、一部では快楽であったりする。
自己所有を標榜する人は、金が好きですが(僕も好きです)、金は自己所有するためには欠かせない、つまり経済的自由が自己を自由にすると、本気で思っています。
たかが数億で魂を仕事(や犯罪)に売る人がいます。
お前は数億稼げるのか? と、そういう人はいつも言います。それはもう、自己所有となんの関係もないことですし、その稼いだ数億で、自分が本当に所有できるのでしょうか。
なんの制約もないことが、つまり「自由」であることが、本当に自由なのでしょうか。
有象無象がいて、それらを支配していたい、という意味で仕事をして、サービスを生み出し、結果として大金を得るというマインドを「経済的自由」と言うのに、僕は少し抵抗があります。
他者(従業員や顧客)の自由を制約して、自分が自由になりたいというのは、理念ではなく欲望ですが、それを「欲望」という言い方以外で表現するのは、少し難しい。
たぶんそれは「一人になりたい」という、世界からの疎外を快楽だと感じる被虐心から生まれた、「涙」のような気がしてやまないのです。
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わかりやすい答えが欲しいと思うかといえば、僕は思わない。僕は答えに絶望することが多いから。答えにというより、答えがあるという事実に。
考え続けることが快楽で、答えは小休止に過ぎないことが多い。
それは、自分が今のところマジョリティではないことを意味しているのかもしれません。しれませんが、僕にも仲間はいます。少数派だとしてもそういう小さなコミュニティは、マジョリティになることを望んでいないのかもしれません。
誰かを支配する必要がなく、自分の気持ちを共有して大事にすることができるから。
この本の登場人物たちは、みな信念があり、異端であり、既得権益を持つ者を声高に批判してきました。
個人的な人たちなのに、全く個人的ではないのです。理念があり、方向性があり、相対主義を認められない。
僕も実は相対主義に関しては意見の変遷がありました。手続き的正しさを担保するための相対主義。人を傷つけないという名目で自分を傷つけないための相対主義。何も肯定していない相対主義に嫌気がさしたこともあります。
他者を想像する経験が不十分なために、相対主義に逃げて、理念的にだけ他人を承認する不誠実を犯したこともあります。(今も犯し続けています)
でも、今のところそうするしかないという現実もあります。他者の権利を認めないという形で、自己の立場を擁護することは、体が主張しても心はうなずかない。教育を受けたからというのもそうですし、何より、自分が自分を守れなくなった時に、どうして、他者を攻撃し続けた自分を、他者が擁護してくれるのかわからないからです。
もしかしたらこの本に書かれている登場人物たちは「その先」に行っているのかもしれません。としたら、お願いするべきことは「もう少し待ってほしい」ということなんでしょうか。
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この本の5章で「トップダウン/ボトムアップは実は必ずしも対立し合っているのではない。それらは、共に「階層」を前提としている点でむしろ相補的な関係にすらある」と書いてあって、悔しかった。「階層を肯定する」と言わなくてはいけないのが、悔しかった。
平等や水平を主張する自分が階層を否定しないのは矛盾していると言われたら、自分はどう答えるのだろう。僕はなぜか、階層を否定することができないでいる。それについては少し考えを整理して臨みたいと思っています。




