五十九冊目『ポストヨーロッパ』
「府雨の読書日記」五十九冊目『ポストヨーロッパ』
『ポストヨーロッパ』
著 ユク・ホイ
訳 原島大輔
高校で触った、文明論や二項対立の議論は、とてもつまらないものに思うことがあります。
何か(わからないもの)を論理という枠組みの中に組み込んで、観察して、満足する。
その思想にもならない、触りだけの文章読解に、おそらく僕たちは「興味を持ってはいけない・冷笑するべきだ」と暗黙裡に教えられてきました。
でもそれらが、冷笑していいものだと、暗に教えられたことは、極めて重要な、僕の思想形成の手がかりです。
わからない文章がある。この書籍も多分にわからない。理路がわからないのに、僕はこの本を読めている。これ、凄まじいことです。
読ませる力があるし、関心を引き寄せるテーマです。
ポストヨーロッパというのは、単にアジアの時代の到来というわけじゃない。
でも、それとは別に、なぜ自分が人文を学び、国語を冷笑してきたかがはっきりしました。
ああ、日本というのは、我を張らなくても、僕を自己的に「半充足」させてくれるのだ。もう、わずかでもヨーロッパ人に引け目を感じる必要はないのだ。新宿で、渋谷で、僕たちは一つの小世界を作り、そこここと接続して生きています。
動と静、東と西、無と有を、ことさらに掻き立てなくても、ナショナリズムをわめかなくても、僕は日本にいることを肯定し、一方で相対化できます。
英語を学ぶことと中国語を学ぶことが、単なる趣味で、人文的な修養をすることが、義務でもなんでもなく、ただただ楽しめる世界。
日本人であることを楽しむのではなくて、日本を楽しめる。日本人であることを主張しなくてもいい、多文化とつながる環境。
突き詰めなくていい。命をかけなくていい。能力を鼻にかけなくて済む。それで「済む」のです。わざわざしなくても、勝手に自分が承認され、僕も他者を承認します。
自己という概念は、内面的なところで解体されています。冷笑することを強いた受験国語が、すでにそれを解題しているからです。
王道がすでに塞がれているからこそ、意図的に思想の王道を潰したからこそ、僕たちは枝葉に興味を移し、気づけば「等什么君」を聴き、ユク・ホイを読み、よくわからないまま中国語の単語をスマホの辞書で引く毎日を過ごせる。
中国のものを読んで、聴いて、ナショナリズムに差し障ることなんて全くないし、なんならそれは、高校の国語の教科書には一ミリも触れられていなかった文化、生き方です。
僕は小説でも折に触れて「中国語を学ぶことの愛国的意義」を書きます。単純に「敵を知り、味方を知らば、百戦危うからず」という程度のことなのですが、ナショナリズムを語るなら、少なくとも中国語は読み書きできるべきだと思います。それが、アジアの覇権を争っていることの、人事的必然ですから。
知らない人ほど好き嫌いが激しい。僕は中国語は好きですが中国(人)はほどほどです。これが矛盾しているように聞こえるとしたら、おそらく語学の勉強をしたことがないということなのでしょう。
ちなみに僕は英語もほどほどですが、洋楽は嫌いです。嫌いということは、たぶん勉強不足なのでしょう。
学ぶということは、それを嫌わない態度を養うことでもあります。
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大文字の「日本」という風呂敷は、才能のように羨ましがられるものですが、一度内面化してしまえば、天才にとって天才であることを誇らずに鼻にかけずに生きることができるのと同じで、とても楽なアイデンティティです。
才能のない人は、常に自分の才能を(努力なしで)認められるように人に働きかけます。日本人であることを声高に言う人も、ご同様の限りで、それ以外のアイデンティティがないか、他のアイデンティティを志向しても努力をしたくないのでしょう。
人は人ですし、日本は単に日本であるというだけで、なんの特別性もありません。あってもそれは、空気のようにそこにあるし、その人に関わるのはもっぱら「日本語」を使う局面(すなわち日常)に限られます。
(人文学が用いる日本語は、もしかしたら広義の「日本語」には当てはまらないかもしれません。)
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情報が多い中で、豊かであるというのは、矛盾するようですが、多くの情報を区別して知っていると言うことに尽きるのではないでしょうか。
面倒くさがりで、怠惰な人は、多くの物事の区別をしない傾向にあります。同じであるように見えてしまうとしたら、関心がないか、好みが分かれていないかのどちらかで、たとえば東京と京都を同一視するようなものです。
たとえば香港で話されているのが北京語ではなく広東語だと知らないようなものです。
それは、致命的ではないけれど、貧しい。
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この本の「故郷喪失」と「思考の固体化」は、結局何を言っているのかわからなかった。わからなかったけど読み終わった。はーあ、という感じ。ユク・ホイに関してはいつもそんな感じ。
故郷喪失……それは、故郷が時間的に変質していくことを言うのか、それとも世界との配置が変わり、自分のいる場所が、位相的に故郷とズレることなのか。
まあ、正直どうでもいい。故郷とはおそらく「知っている」ということで、喪失とは「知らない・知らなくなった」ということなんだろう。
文脈的に、哲学と科学が分離したことで生まれた状況につけられた、一塊の名前。
思考の固体化……これ、全然わからなかったな。文中に集中的に書かれていたところは、完全に読み飛ばしました。思考が思考内容という形をとって受肉すること、なのか?
類型化、比較は役に立たないって書いてあったような気がするし……。
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読み始めは、買って失敗したぁ、と思ったけど、読み終えてみると短くて興味深い論考でした。
近代の日本についての言及も多いけれど、それは「僕」と「僕の周り」を必ずしも含んでいるわけじゃなかった。
それは僕と歴史の間に断絶があるからなのか、僕があまりに「非哲学的」だからなのかはわからない。
哲学するのは好きだけど、そもそも自分が「哲学」の方法論を体系的にわかっているわけではないことも、無知の一因な気がします。
哲学をするというのは、日本ではもう「懐古主義に耽る」というのと、変わらないですからね。
それが僕の一つの孤立性であり、没接続的な行き止まりのような気もします。




