五十八冊目『自由論』
「府雨の読書日記」五十八冊目『自由論』
『自由論』
著 J.S.ミル
訳 関口正司
岩波文庫読み切ったの、初めてかもしれない。
嬉しいです。
何より読みやすい訳文に感謝。
ミルの論理が、現代の思想ととても親和性がある……というより、現代思想のロジックが、こういう文章によって培われていったことが、はっきりわかる。
理想的な文章だし、極めて常識的な内容です。
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自由というのが保障されている世界でなければ、まず社会的な力は育たないはずです。
個性の源泉が自由であり、誰からも、誰をも傷つけない限りでは、どのような行為も自由に認められる。
それは、価値観が時代と共に変わり反転する可能性のある社会で、当然要請されなくてはならない、思想の重要インフラです。
可能性、不可知性、蓋然性、複雑性、可謬性、数え上げれば限りない「未知」への敬意が「自由」を保障するための論拠になる
わからないことがある、意見が対立する、あなたと私は違うという状況を、押し支えるものとして、一枚の紙のような、厚みのない概念「自由」がある。
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個性を支えるのも自由であり、個性は時代のゼンマイを巻いて、時間を進める。
新しいこと、少数の人にしか共有されていないことが、徐々に広まって世論を獲得する。そこにも、自由は欠かせない。
言論と出版の自由は、可変的な世界の景色を変え、力を生み出す。
繰り返される討論は、世界の認識をより精緻に、より正確にもたらす。多くの自由な討論が、新しい知見を生み出してきた。
それは、自分自身の幸福に資するところが最も大きい。
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自由と幸福を論じるのに、ミル以上の論客がいるとも思えないけれど、蛇足ながら自分の見解も記録しておきます。
僕は、公共の場で「話せる」という、言論の自由と、その場に相応しいことを「はなせる」という、権能としての言論能力は、もちろん異なるが関連していると、僕は思っています。
公共の場で話せるのは、そこではなすべき「相応しい」語彙を身につけているということに他ならないし、相応しいないようをはなせるということでもあります。
そこには知識が必要で、その知識を培うためには、不断の学習が要求される。
教育は単に識字を普及させるためのものだけではなく、自由になるために「自由に」意見を表明できるようにする、人間の基礎的なインフラです。
複雑な世界をある程度細かく文節することも、マクロ的に整合性を持って秩序ある世界観を持つことも、時と場合に応じて適切な言葉を使えることも、「知らないことを知っている」ことも、自由に生きるための必要条件だし、それがなぜかわからないけれど、修養した、適切な見方ができる人を社会のそこかしこに配置する、最も効率的な方法だと、僕は思います。
中庸な見方ができる人は、社会の強靭さの最も肝要な屋台骨だし、隣の人を支え、家族を支え、国を支え、世界を支えている。
例えば独裁者がそういう人々を恐れて殺すと、致命的な人的空白が生まれる。
昔は総理大臣になるような人が今、日本では、ボトムにたくさんいて、市井で隣の人を助け、自分の持ち場を保ちながら、様々な形で国に貢献している。
自由が重要なのは、そういう人が、自由で高邁な精神を持ちながら、野心を持ったり持たなかったりしつつ、自分の「個性」を発揮しているということ。
何かを批判する力があるのは、批判する頭脳を持っている人です。銃口を向けられるのは、多くが大学生や教師だったりします。
もし何かあれば、そういう人たちは、すぐにでも「総理大臣」になる準備ができている。
そういう人間でありたい。




