五十二冊目『斜め論』
「府雨の読書日記」五十二冊目『斜め論』
『斜め論』
著 松本卓也
東京スカイツリーの三省堂で買いました。
大学の先輩と、よく松本卓也の話をしていて、二冊くらい読んだことがあったかも。
当時は僕も暗中模索で、ままならない精神の頼りとなるものを、手当たり次第買っては、読めずに積読していました。
この『斜め論』は、面白いと思う箇所もありましたが、ちょっと難しかった。
ただ、精神の症状の回復に、垂直性(権威性)と、水平性(対等性)があるという考え方は、確かにその通りだと思います。
閉鎖病棟と、デイケアは、顕著な違いがある。
日本で、閉鎖病棟にデイケアがついているのは、理論的にも合理的なんだとか、あの若者の引きこもりの専門家だった先生が、あんなふうに押しつけがましくなかったのは、臨床理論的な裏づけがあったんだとか、自分の経験を引き出しても、納得することが多いです。
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統合失調、双極、依存といった、人間の精神の不調は、脳病的側面が強く、薬での対応が重要なのは理解できます(この点がわからない健常者は多そうですが)。でも、その脳病の結果「できなくなったこと」は、人間活動の中で、個人的にせよ社会的にせよ、精神的なものを超えて出現します。
集中力がなくなったり、仕事ができなくなったり、対人関係が乏しくなったりと、現実的に障害を感じることが多い。障害そのものより「障害らしい」です
僕は、病気であることの付属状況として、各種の「ままならなさ」に苦しめられました。
手が後ろに回っている中で、思考回路を工夫して、自分の状況を一つ一つ納得させることに、腐心したことを覚えています。
僕の文章を書く習慣は、受験勉強からの逃避から始まったものですが、病気がなりを潜めつつある現在も、絶えず「わからないこと」を自分なりに解釈するために続けています。
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垂直的な対話と、水平的な対話のどちらが重要かについて、僕はにわかには結論を持ちませんが、本文中にもあるとおり、医者やカウンセラーに話せなかったことが、同病の仲間には生き生きと話せました。
その「話せること」が、どれだけ重要なのかわからない、というと、贅沢な身分だと指弾されるかもしれない。僕は家族にも、友人にも、自分自身にも恵まれているということは、間違いないから。
急性期の入院が、一概に悪いとは思いません。当事者研究の効果が著しいかというと、急性期はなんだって手詰まりといえば手詰まり。
病状を小康状態に押し留め、回復は時間を待つことだという、ロジックは、言われてもなかなか承服できなかった。
ここ十年、僕は撤退戦を戦い、多くの財産を捨てて、十年前想像していた場所とは違う場所にいます。
でも、死ななかった。実に楽観的で、実に肥沃だったから。
肥沃というのは、友達や家族に恵まれ、小さな挑戦を肯定してもらい、ちまちまリテラシーを拡充して、病に打ち込まれた傷を、解釈し続けられたからです。
五割読み捨てとはいえ『斜め論』を読み終えられたのは、実は大きな成長なのだと思います。
高校生の頃よりずっと、リテラシーを蓄えている。昔は自分は頭がいいと思っていた。鋭敏な感覚で解釈していると思っていた。
でも今は、病という環境によって、自分の読み書きの能力にある種の方向性が付与されることに、充実感すら覚えます。それがたとえいくら鈍麻でも、です。
ロジックでは解決できない問題があるのだという事実を、引き受けざるを得なかった。与えられた土地に米は植えられないけど、みかんなら育つみたいな。
自分の無意識のうちの言葉遣い、昔とは異なって出てこなくなった敬語や、単語の言い間違いなんかも、実に自然で悪くない。
なにか人工的な抑圧を、自分に課していたのだと思うと、いい悪いではないのですが、一種の「自然」を、引き受けなくてはならないのが、自分の現在だと思います。
それにしても精神の病が、端的に言葉を制約するということ、意味を強めたり瓦解させたりすることを思うと、言語を介した世界入る亀裂が、自分の亀裂になり変わったことに、衝撃を感じずにはいられない。
人間の世界の輪郭が濃くなると、典型的な物語に、巻き込まれていく。特別な知見を得られるなら、それは一つの肯定ですが、そんな事はなかった。ありきたりでご都合主義の、自己中心的な世界理解に、僕は今も辟易しています。




