五十一冊目『ケイパビリティ・アプローチとは何か』
「府雨の読書日記」五十一冊目『ケイパビリティ・アプローチとは何か』
『ケイパビリティ・アプローチとは何か』
著 マーサ・ヌスバウム
同僚と調布のくまざわ書店に行った時に買った本。
専門書では珍しく読了した。最近の僕の流行りでもある、個人へのエンパワーメントをテーマにしていて、その理論的基礎を描いています。
貧困や障害を、より貧困らしく、より障害らしくするのは、その人のリテラシーの欠如や低い教育水準だというような主張。僕は強く同意します。
お金を配ればいいという問題ではないことは、何年も前からわかっていた。でも、個人にエンパワーすることは、お金を配るよりお金がかかる。
お金で手間を惜しむ風潮が強いのにも、なんとなく抵抗があります。何か嫌なことをしたくないから、金を払う。皿洗いがしたくないから、外食をする、みたいに。
できないことを、できないものとして諦める考え方も、なくはない。でも、学ぶことができないから学ぶことを諦めるのは、もったいない。皿洗いができるようになれば、生活は確実に変わります。
人間は何かのきっかけで学ぶし、それは自信に直結する経験です。毎日Vtuberを観ている弟も、そこで多くのことを学んでいる。
わずかな向上でも、小さな一歩でも、できることを増やしていくこと。人にエンパワーすること。それが必要な気がします。
日本でケイパビリティ・アプローチが問題になるのは、学校教育ではないのかもしれません。
子どもを囲い込んでいる家庭だったり、学ぶことを拒否している大人だったりが、単にめんどくさいからという理由で、思考停止している。
人間開発という言葉でマーサ・ヌスバウムが言っていたように、事は、学び続ける大人をどう育てるかということです。
誰がいくら稼いだということは、部分的なことで、孤独や無聊を慰めることには、ほとんど資することがない。
GDPの指標をよくして、中国やドイツと競争することが、僕たちの人生になんの影響があるのでしょうか。
各人の柔軟な筋力としての能力があれば、レジリエンスも高まり、人生に弾力性が生まれます。何かに挑戦することができる。
夢というのは棚からぼたもちを期待するようなものではなく、自分の手で、何かを作り、何かを発信し、充実感を得て、生計に資することです。
作る、発信する等々の割合は人によって違うかもしれません。でも、僕は父親に言われます。
「将棋は見るより指す方が面白い」
「野球は見るよりやる方が面白い」
「小説は見るより書く方が面白い」
何事もやる方が面白い。
やるためには能力がいる。能力があれば、必然人生は面白い。わかりきったことです。
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できないだろうと、諦められて、打ち捨てられるのは、絶対嫌です。悲しい顔をしておいていかれた人を、見なかったわけではありません。
苦痛が伴うのは、不幸の結果ではなく、単に必要な能力がないからです。たとえ障害があって、心身がままならないとしても、その状況を覆す唯一の方法は、ケイパビリティを高めることであり、決してばら撒かれたお金を受け取ることではない。
能力を高めるためには能力を高めることが必要だ、みたいな循環論法に陥っている感は否めません。
啓蒙的な、高みからの教育に抵抗感がある反面、仲間から得られる水平的な知見に、どことなく呆れを感じてしまうのもわかります。
どうすればあの人みたいになれるのだろうという、決定的な「遅れ」に、明確な回答があるわけでもありません。
ケイパビリティ・アプローチは、こと日本に当てはめると、極めて心理的な抵抗が裏に走ることが容易に想像されます。どうしてもマジョリティには、能力を開発する手間が惜しく思えるらしい。
能力開発は苦痛を伴うという「ソフトな側面」と、人間開発が人々にケイパビリティに基づく選択の機会を与えるという「ハードな側面」が、なぜか対立しているのは、とても興味深い。
選択の機会がある程度制度として保障されている日本では、自分の選択が環境によって与えられたものであることを意識せず、「自分の」能力のためであると思いがちです。「才能」という言葉で人間開発を否定する。よくわかります。
その基本的な人間の権利を支えるインフラが、所与のものとしてあることを忘れがちです。もちろん「才能」が発揮されるためには、直接的には関係ない、多くの制度やインフラ必要です。
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こういうのは、リベラルの綺麗事なのでしょうか。そうかもしれない。お金について、もう少し思索を深めてもいいけれど、とりあえずこの辺りで失礼します。




