四十九冊目『物語化批判の哲学』
「府雨の読書日記」四十九冊目『物語化批判の哲学』
『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』
著 難波優輝
歳の近い思想家が、興味深い本を書いていると、調布のくまざわ書店で気づいて、嬉しかったです。
僕たちに、時代を作る順番が回ってきたことを、感じないわけにはいかない。
フィクションに対する反応として「これはフィクションだから」と距離をとる感覚。没入し切らない堪え方。
最初にそれを読んだ時、自分がフィクションを忌避している理由がわかった気がしました。
影響を受けたくない。自分の現実把持を揺るがされたくない。内的な秩序の維持もそうだが、そこには世界(現実)に対する強い責任感があると、僕は思いたいのです。
とうとう来たか。
僕より一個上。どうやって勉強しているのか、かなり気になる。
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フィクションと現実の境目を、なくす方向に動いてきたような数十年に、真っ向から抗うように、物語化を扱う。
本書を読んで、いろんなことを考えました。
予測可能性と予測不可能性について。キャリアや、人生の時間軸を、数直線で考える方式は、うまくいかないだろうと、少なくとも僕には当てはまらないだろうと、昔からそう考えていて。
仮に「計画」してもモチベーションが続かなかったり、社会の変化に巻き込まれて、気づいたらポルノとYouTubeにまみれていたりする。
社会の中で評価を求めること。それは承認欲求とは少し違って、自分の位置を確かめることです。
これも、社会人になって初めて知ったことだが、評価を受けることは珍しい。特別なことをやったと思っても、他者に評価されることは稀です。
自分の「市場価値」なんて概念を、考え出したのは転職市場です。価値が、計量できると思うことを強いられる時代です。
本来、人を評価することは難しいし、評価されることは珍しい。何でも数字にはできないし、心を満たす甘い言葉も、単なる、甘言であることも多い。
人生に「明晰なルール」はないし、ひりひりするような自己の発露の場も整えられていない。
レスポンスが即座に帰ってくるゲームの世界を、現実世界に重ね合わせることは、難しい。
ゲームには課題があるけれど、現実には明確な課題が存在しているわけじゃない。
じゃあどうすれば? やりたいこととは? 続けるということとは?
何かを獲得する、欲求を満たすという物語を紡ぐ。理由がなきゃいけないと、人は本当に思っているのでしょうか。
やりたいことは、結果的にやり続けたことにすぎないと思うのです。
では、僕は何を、なぜ続けるのか。
そこにもし価値があるなら、それはどうしてなのか。
おそらく、先ほど未来が計量できないと言ったのに反しますが、何となく、良い未来を予感して「願いを託して」いるのだと思います。
自分の時間的な「変化」を信じている。僕たちは自分の能力値の上昇の先触れを、感じ取ることができるはずです。
計画を破綻させないための心構えとして、メタ的な「計画」を考案する。計画を行動に忍ばせる。含めて織り込んでしまう。そういうことを、多くの人は知らず知らずのうちにやっていて、そういう形でしか成熟というのは感知できないはずです。決して、市場価値を計算しているわけじゃない。
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答えがある。説明として明快で、知的にフレッシュに聞こえるのは、物語として優れていても、現実に適用することは、難しい。
ここでも、フィクションに対する引っかかる感じが重要になってくる。たとえ、オーソドックスな言説が退屈に思えても、です。
知的な面白さ、興味深さと、脳汁の出る快楽は、本質的に異なっていて、答えがないものを考え抜く時間が、脳汁は出ないまでも楽しい時間なのに対して、脳汁が出る時間というのは、すぐに「評価してもらえる」ことで、脳を甘やかしている時間です。
評価されない、宙吊りの状況でも判断できる人を、人は評価するのではないでしょうか。
わかりやすい物語を採用することは、一つの脆弱性でもあります。量産されたマスの中の一人として、統計に組み込まれ、市場にされ、不安につけこまれ、個性を奪われることになるからです。
答えがない問いを考え続けることが、思考だと、高校生の頃口を酸っぱく言われました。何だ当たり前のこと。そう思いますが、僕にとってはその思考は決まり文句的ですが、案外財産のような気がします。




