四十冊目『資本主義リアリズム』
「府雨の読書日記」四十冊目『資本主義リアリズム』
『資本主義リアリズム 増補版』
著 マーク・フィッシャー
ほとんどがブログにて書かれた記事ということで、随想的で、筆が走る感触まで伝わってきそう。
何回か立ち読みして、何回か、買うのを諦めた本書でしたが、結局多摩センターの丸善で買い、数日かけて読みました。
紙面は異常に読みづらいです。注なんかほとんどないのに、紙面の下部に余白があり、文字は無駄に大きく、翻訳も、素晴らしいとまではいかない。
それでも、飛ばし読みしながらでも、問題意識みたいなものは、なんとなく掴めました。
資本主義が支配する空間での病理は、個人的なものだけが、理由じゃない。それはそうです。
技術が進歩するごとに、僕らの世界は息苦しくなる。
資本主義という言葉が、何か、間違っているのかもしれないと思いました。僕たちは、資本主義を見ることができないのに、資本主義に縛られていると思う。
精神の病、鬱、双極性障害、統合失調症。まあなんでもいいですけど、元気でなければ乗り越えられないリアルに、僕たちは辟易しているはずです。
一度止まると、それから浮上するのはとても難しいですし、仕事が楽しいなんてこともない。
でもいいです。仕事が楽しくないからこそ、読書は捗るし、こういう文章に熱中できるから。
というと、お前は鬱や躁鬱(双極性障害)の苦しみはわからないだろうと言われそうです。(それについては特に言うことがありません)。
する/しない、ではなく、できる/できない、という問題の根幹は、まあなんとなく理解できます。
脳病、フィジカルの問題であるはずの病理のはずなのに、どうして資本主義リアリズムがそれを誘発し、並走させるのか。
僕にはなんとなくわかります。
高度化した技術がもたらす、不断のコミュニケーション。表層的で、物理的に大量の情報処理。
多くの場合、そのコミュニケーションで僕たちは、欠けたものや、空白を埋めようとする。
外に答えがあると直感的に思うのでしょう。
でも今いる場所は、均質で、案外チャネルも少ない。耳の痛いことを言う人はいない。
親も学校も、しつけはしない。なぜなら大人はもう、正しさなんて待ち合わせていない。相対主義の極めて悪質な特徴から、うまく抜け出せていない。
答えがないのなら、あとはスタンスの問題ですが、答えがあると思うと不安でしょうがない。
何かのために、という目標の設定が困難なら、今度はどう生きるかという、現在にフォーカスする。
未来の物質的成功が、想像できないのは、誰のせいでもない。
それが成功だと、誰も思っていないし、そんなことは昔からそうです。羨ましいとは思わない。そんな想像力がないとは言わせません。
***
病気が国民病なのは、マーク・フィッシャーのイギリスだけではなく、アメリカでも日本でもそうです。
資本主義と民主主義の傘が開いているのに、まるで鬱の雨を防いでくれない。
娯楽すらできない鬱陶しさ。
何もやりたくない/何もできない。
負荷がかかり過ぎている。
まるで鬱が仕事のようで、本当に困りませんか?
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均質なコミュニケーションが仮に嫌だとするなら、僕たちはどうすればいいでしょうか。
どこにも答えがないなら? そういうディストピアだとしたら?
逃げるのも一興。でもその場合たぶん、僕たちは自分自身から逃げようとしているんです。
それが一つの考え方です。自分から逃げ出す、現在に甘んじない。今よりもっといい自分を見出す。
鬱に十年かけてもいい。違う自分になれるのなら。結局出力は、たいしたことないのです。人によって差なんか、大して生じようもないのです。
沈静して、鬱に身を任せる。そこで得たもの、その沈鬱な時間こそが、財産のような気がします。
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資本主義と平行に、鬱というラインが走っている。それは、否定すべき現象なのでしょうか。
鬱はつらい。それはわかります。
でも、鬱を何かで打ち消そうとする行為自体が、どこか歪んでいるかもしれない。(薬を飲むな、という意味ではありません)。
資本主義が鬱を生み出したのではなく、僕たちが鬱を生み出したのではないでしょうか。新しくできた定食のように、抱き合わせなのです。
鬱を抱え込む社会の制度は、金銭的な援助、医療的な援助もありますが、文学的なアプローチだってあるはずです。
もっと言えば、個人的な鬱的人生の歩み方だって、今後「雑誌とか」にだって出てくるはずです。
鬱を否定するのでもなく、鬱抜けを語るのでもなく、鬱のまま、イギリス文学のように水面下で泳ぎ続け、トビウオのように水面から飛び出て、キラキラと輝く。
そう思うと、人生で輝く瞬間というのは、短い時間でいい。あとは鬱でも、それがデフォルトなんですから。




