三十九冊目『大学改革 自律するドイツ、つまずく日本』
「府雨の読書日記」三十九冊目『大学改革 自律するドイツ、つまずく日本』
『大学改革 自律するドイツ、つまずく日本』
著 竹中亨
新書を読むのは、本当に久しぶりですが、ところどころ飛ばし読みしつつも、この本はとても面白く、満足しました。
多摩センターの啓文堂で、タイトルに惹かれて買いました。
日本の大学の競争力の低下は、興味の対象であったもので。
興味深い指摘として、読んでいて思ったのは、大学が一つの「社会の器」になっているということです。
多くの人が大学に入学する現在、大学の役割も、昔とは変わってきている。
頭のいい人をもっと頭良くするエリート主義ではなく、言ってしまえば未熟な若者を、なんとか使い物になるようにする器としての役割を、大学は求められているわけです。
それは、大学の役割ではないという意見もあると思います。
初中等教育が果たすことであるという意見は、もっともです。
でも、産業構造が変わり、複雑化した世界に若者を送り出すなら、大学も教育機関として一定程度果たす役割があるように思います。
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内田樹とかを読んでいても、教育の数値的な査定は意味をなさないという議論があります。
昔読んだ話だと、査定する側に回るそれゆえ優秀な教員の、研究の時間がそれゆえ奪われるという話には、涙が出てきます。
数値では、業績は測れない。
でも日本は、その評価制度を敷いている。
教員としては、どうしようもないなと思うらしいです。
それは、法人化した大学への間接的な締めつけです。
大学人は、大学が、政府のために恣意的に使われることを、常に危惧するでしょう。
大学が大学として独自のあり方を保ち、「社会の器」としての国家の材料の一部になるなんてとんでもないと、懐古的に過去を回想しながら憤慨するのも、一部もっともだと思うのです。
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僕はでも、多くの人が大学に行って、研究や学業に励む世界は、実に良いものだと思います。
モラトリアムという言葉もありますが、大学を中退した僕も、あのアカデミックな空間に一時的に籍を置いたという事実に、感謝するばかりですから。
大学が、研究と教育に関して、社会と交わらないことは、もう難しいと、竹中先生は言います。
僕は、それには賛成ですが、全く別軸の大学があっても良いとは思います。
先生もこの本の中で、日本の大学は序列化が進んで、流動性がないと指摘されていました。
本書で比較されているドイツの大学は、世界大学ランキング上でかなり変動があるようです。
日本の序列化は大学というより、都市中心の構造がそうさせている面もあると思います。
でも、何かに卓越した分野を持つ地方国公立大学が、東京から学生を呼ぶ構造があっても良いと思いませんか?
そう思うと、大学を「社会の器」と考える先生の主張に、疑問も浮かびます。
同じ構造の大小の大学が散らばる構造から、質的に異なる教育機関が、社会の要求とは別に、一つの聖域を作るのも、大学の在り方の一つではあると思います。
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たぶん、今の大学の知は、「知っている」ことだけでは、意味がないのでしょう。
何かを生み出して、世界を耕すことが求められている。
結構面白いのは、東大と京大は、学力的な差が少しあるにせよ、それより際立って、学生や教員の風土に違いがあることです。
入試や立地、伝統なども含めて、あれほどの人の違いを生み出すのは何だろうと、僕は不思議に感じます。
ああいう特色が、僕には一番重要なことのように思われます。
ああ、金沢大学行きたいな。みたいな。




