三十八冊目『言葉をもみほぐす』
「府雨の読書日記」三十八冊目『言葉をもみほぐす』
『言葉をもみほぐす』
著 赤坂憲雄
藤原辰史
友達を呼んで、多摩市立中央図書館で、『源氏物語』を読んだ、連休の最終日。
源氏の本文をただ写す。
実に楽しい時間でした。
帰りに、図書館のおもてから、多摩センターの丸善に行き、買ったのがこの本。
僕も友達も時間に追われていて、いい本を探すのに焦っていて。
僕は、この本がいい本かどうかはよくわからない。すぐに読み終わって、短さといい、完結性といい、なんだか、入試現代文を解かされたような気分です。
書簡のやりとりという形式は、叙情性が際立って、自分にもっと感受性があれば、より面白いだろうに、と、少し悔しかった。
そう思うと、冊数をこなすことを意識してばかりで、深く記憶に刻むことができないでいることに気づきます。
読むことより、ずっと、この読書日記を書くことが目的化している。よくないなぁ。
それは、歌詞を遡らない洋楽のようなもので、余白はまだたくさんあるのに、書くことを諦めてしまうノートみたいです。
藤原先生は、まるで高校生のように、問題意識をあからさまにして、わからないこと、よくないことを言葉にする。
典型的な学者というと、揶揄しているようにとられるかもしれませんが、そういう人がこの世界にいることに、僕は安心します。
藤原先生は、無機質な官僚制のような、非人間性を嘆きます。
僕は、それは、学者や教師の癖であると思います。
官僚や事務屋は、学者や教師のためにいるわけではない。どちらかがどちらかのために尽くす必要はない。
否定する仕方はそれぞれで、僕はどの否定にも文句はありませんが、学者や教師が、肯定することを忘れ、批判するマシーンになるのは、時たま、クスッと笑ってしまう。
「批判ばかりして」と、言われると、藤原先生はおっしゃっていましたが、当然ではないのですか?(くすっ)
赤坂先生は、感動を表にされない点で、藤原先生と対置されるでしょう。
いい往復書簡です。
赤坂先生の『性食考』は先輩から借りパクして、書棚にささっています。ささってるだけ。
先輩はとても面白かったと言っていました。付箋もたくさん貼ってあって。
民俗学の妙味を、僕はなかなかわからないでいますが、それはたぶん、僕が生きている意味の世界が、薄弱な根拠のもとに成立しているのだと、突きつけられるからかもしれません。
関係ないことを話しているように読めてしまうのは、どこにも根ざしていないから。
興味関心とは本質的に異なる、生活の現場が、僕の場合実に、都市的だということになるのでしょうか。
言葉と物語は違う。
存在(名詞的なもの)と様態(動詞的なもの)くらい違う。
私が何者かより、私が何をしているか。
どう動いているか、その動きが、そのまま私なのだと。つまり、私は、「私を騙るキャラクター」なんぞでは、決してないということです。
ただ僕は、動的平衡という言葉は、なんとなく嫌いですけれど、つまりはそういうことなのでしょうか?
***
タイトルの「言葉をもみほぐす」は、正直ピンとこないです。
言葉の話をしていなかった。……それはお前の読み込みが浅い。そうかもしれません。でも、僕が思う言葉の話は、少しも出てこなかった。
でもそれは、言葉が安易な記号として使われていない、すなわち言葉が流体だったのかもしれません。
もみほぐすというのは、そういうことなのか? そういうことだとして、何をしていたのか。
明確にわかる人にはわかるのかも。
僕には切り干し大根みたいな味の本でした。




