三十七冊目『神経症的な美しさ アウトサイダーがみた日本』
「府雨の読書日記」三十七冊目『神経症的な美しさ アウトサイダーがみた日本』
『神経症的な美しさ アウトサイダーがみた日本』
著 モリス・バーマン
訳 込山宏太
錦糸町に同僚と映画を見に行って、その帰りにくまざわ書店に寄り、お金もないのに四千円もする本書を買いました。
西田幾多郎や西谷啓治の文字を見て、アメリカ系の学者の、最近の京都学派の研究ってどんな感じなんだろ? と思って、軽い気持ちで(値段と重量はあった)買い、結論から言うと、かなり満足度は高かったです。
翻訳に言及する必要があります。込山宏太さんは、全然知らない人(全く聞いたことのない翻訳家)だったのですが、原文がいいのかわかりませんが、実に読みやすい翻訳で、寝ながら読めました。
翻訳書は、机の上に広げて、5ページ毎に休憩が必要とされるような、苦痛を伴うものであることが多いです。
本書は、めちゃめちゃ読みやすい!
比較文化的題材の優しさ、そもそも日本に関するものであることなど、要素はいろいろありますが、「はいはいテンプレ乙」と思って読んでると、必ず「〜はテンプレですが」みたいな分析があって、実に安心して読める。
著者は必ずしも日本に詳しい人ではないような印象を受けますが、文化論としては、特に第二次世界大戦に関しては、(多少? 十分な?)網羅的な記述があって、思考の整理としてはこの上ない読み物でもあります。
京都学派の哲学は、僕の出身大学でも研究されていますが、本書のような見方はされていなかった。
ライトでポップな京都学派、特に禅の扱いに、僕はとても面白さを感じました。
大学の先輩が冗談めかして、「うちの日本哲学研究室は、英語ができないから、世界の京都学派研究から遅れをとっている」と言っていましたが、これを読むと、否定しきれないと思います。
僕は、京都学派を、文学的に味わうのが好きです。それは少し、アメリカ的な読み方なのかな。ワードチョイスのかっこよさ的な。
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ただ、この本を読むと、日本人の全体的な傾向は掴めますが、個人個人の心性にまでは、食い込んでいないような気がします。
本書で抽象的に浮かび上がってくる日本のキャラクターに対して、複雑さを極める現代人のパーソナリティは、こう言うと難しいですが、日本人という括りを、もうすでに無化しつつあるような気がする。
鬱やいじめ、アニメやオタクは、一度は経験する麻疹のようなもので、それらを通り過ぎてできるメンタリティは、単純な傾向で型を押し当てることを拒んでいる気がします。
神経症(精神病)的抑圧は、複雑な社会に適応するのに長い時間がかかることを示しているだけで、欧米的成熟のプロセスと日本のコミュニケーション形態が、全然異なるという単純な理由によるものです。
人間的外交の面で未成熟に見えても、プライベートや内面では、成熟とは軸を異にする哲学が、各人に備わっている。
仕事の場で、僕たちは単純な言葉ばかりで意思伝達しますが、それはそういうことを要求されているからです。家族の会話にも、哲学は要らない。でも友人関係は、僕の実感では、哲学でしかない。
僕はアニメを観て多くの感動や物語をそこから吸収しました。今は、せいぜいマンガのページをさらりとめくるだけですが、多くの物語に支えられて、今の自分があります。
あの時観たアニメで震わされた心が、端的に言って僕の青春であり、かき集めて数千冊に至ったマンガが、僕の少年期だったと思うのです。
逃避していた? 甘えていた?
そう言われるのは結構なことです。構わない。でも面白さ、興趣、有意味性を、サブカルチャーから抽出して、血肉にしたことは、揺るがせない事実でしょう。
僕らは面白さを求めています。そこに妙味があり、複雑さに意味があります。
適応には時間がかかります。またそれは、経済的な営みではありません。
でも、神経症(精神病)は、薬を飲み、物語を吸収して、活動するようになれば、その経験が充足した虚無だったことを語るに違いありません。一種の興趣・面白さにほろほろと溶けていく。
薬を飲むことについて、賛否はありますが、もしそれが内因性の病なら、薬くらいは我慢すべきで、もしそれがストレスや環境の問題なら、まずはゆっくり休むことです。
現在の世界は過剰に僕らに要求します。
それに対する答え方は、いろいろあって然るべきだと、僕は思います。
全く本を読めなかった大学時代を思い返すと、自由に本を買って、ちまちま読んで、こういう雑文を書くことができることは、自分にとって驚くべきことです。
数百ページを堪えて読めるというのは、夢でしかなかった。
それは、膨大な量のマンガとラノベばかり読んでいた中学時代の再燃なのかと思っていました。
でも少し違う。読む本も、読み方も、昔とは異なる。読んだものは読んだ先から忘れていく。文章を諳んじることなんかありえない。
でも、読むという行為が僕にとって欠かせないのは、今読んでいる本が、僕にとっての今の「面白さ」であり、昔と同じくアニメを観ているようなものなのでしょう。
面白さ・興趣が人生には欠かせない。それは日常においても当てはまる、個人的な真理でもあります。
本が読めなかったのは今思うと、単に鬱だった以上のことはなく、その時の「あがき」や「もがき」は、僕の断裂した人生史を、なんとか結び繋いでいる手術糸のような気がしてなりません。




