三十六冊目『「愛」するための哲学』
「府雨の読書日記」三十六冊目『「愛」するための哲学』
『「愛」するための哲学』
著 白取春彦
友達を待っている本屋で、買いました。
そんなに重い読み物じゃないだろうと、思って。
土日に寝ながらちまちま読んで、「あー、いいのかなー、勉強とかしなくて」と不安になります。
本を読むのは、勉強ではないので、時間がなくて読み途中で諦めることが多いです。
買った本の七冊に一冊読み終えて、知識量で言うと一冊読んで三行身につく感じ。
記憶力なのか、なんなのか。何が足りないのかわからにゃい。
最近寝具を変えて、寝ながら快適に本を読める物だから、ダメになってしまった。
昔から塾の先生には、寝ながら本を読むなと言われていたけど、そんなの守れるわけがない。
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効率を求めるばかりでは、何も得られない。
そういう認識をしない人もいる。それはそれで悪くない。それで上手くいっているのだから、悪いはずがない。
愛は、弱い人間というものの処世術だ。
何か武器を振り回すことではない。外部的な自己の延長を使うことではあり得ない。
僕が自己自身を組み合わせて、何か自分と違う物を作る時に、それは、自分を愛していることになる、と思う。
内的な充足。こぼれる自己。
まるで愛が自己そのものであるかのように、行動に自己が投影される。
外部的な延長を使う人は、環境を変容させようとし、内的な充足を重視する人は、自分に何かを与えようとする。
だから、お金と愛は相容れない。お金は外部的な何かを達成するための道具で、愛はもっぱら自分の気持ちを整えてくれる、泉がもたらす潤いだから。
論理的に考えることの多くは、愛を表現しない。
僕は弟を愛しているけれど、なぜそうなのかはよくわからない。
たまに、理由がない愛は、それを愛しているとは言えないんじゃないか、という懐疑心に駆られる人がいますが、理由がある愛は単なる打算で、特に意味はないと、僕は思います。
一般的に言われる利他と、僕の、愛のイメージは違います。
誰かのため(自分のため)ではなく、単純に自発的な感情です。利己とも違うのがわかると思います。
状態、気持ち、ふんわりとした感覚。
言語化できないものを、言語化できるものに置き換える愚行は、そろそろやめます。
効用や効率では測り得ないのだというのは、ありふれた説明であり、使い古された言葉です。
僕はそれを踏襲します。
セルフ・アイデンティティのように、メタ認知のように、知っている人しか知らない感情や状態。
愛するという動詞が、愛しているという状態を作り出す。主客が一旦不明瞭になる。その感覚を、愛を知らない人は認められない。
僕とて、何かをわかって、愛しているわけじゃない。
でも、わりあい体感できるから、それを愛と思っているに過ぎない。
もしかしたら全て勘違いなのかな?
客観的な証拠はなく、全ては成熟の中に溶け込んでいて濾過しても結晶は残らない。
それでも、勘違いの中で、自分が酔い、心地良くなっているなら、悪くはないと言える気がします。




