三十四冊目『フリーダム』
「府雨の読書日記」三十四冊目『フリーダム』
『フリーダム』
著 羅冠聡
方禮倫
僕は、結構中国が好きです。北京は憧れですらある。雰囲気や人が、いい感じで。
友達と香港に行く約束をしてから、あまり知らなかった香港のことを勉強しようと思い、この本を買いました。
その前に香港の最後の総督、Chris Pattenの『The Hong Kong Diaries』を買ってちまちま読んでいたのですが、難しい文体と単語で、なかなか読み進められず、ちょっと積んでいる状態でした。
本書にもクリス・パッテンは出てきます。
香港の一国二制度についての知識の、もっと具体的で生活的な側面を、この本で知りました。
北京政権への印象も、ずいぶんと変わりました。
僕は、権威主義的な空間をよく知りません。自由は水や空気のように身の回りにあり、高校生の時から口角泡を飛ばす勢いで、様々なことに「自由な意見」を持つことができた。
内心の自由と表現の自由を、疑ったことはありません。
日本でも行政府の不正や腐敗はあります。人も死んでるし、苦しんでいる人は何人もいるはずです。
だから「言ってはいけないこと」がないわけではないですよね。そういう因習的なものと、権威主義がどこかで手を組んでいる。それは容易に想像できます。
穏健な見方からすれば、差別的な発言は慎むべきですが、その公共性の解釈によって、権力が表現の自由を侵害することがある。
権力の自立が、人民の抑圧によって成立していることは、本書からよく学びとることのできるものの考え方の一つです。
硬直化した体制が生き延びるためにさらに強硬になる。それによって人民も、諦めるか、闘うかを選ばなくてはいけない。何にも考えないということは、許されない。
連帯することが必要なのに、そこから利益を得ているという負い目から、うまく連帯できなかったりする。それは、悔しいですよね。
文章が発表できなかったり、裏切りを疑うがゆえに、本心を語れなかったりする。人間は社会的な生き物なのに、闘う者は、どんどん孤立していく。
上司に意見する時ですら、恐怖から語尾を丸めてしまうことがあるというのに。ネイサン・ローは、北京を相手にして。結局、政治的に迫害されることになる。
でも、それはネイサン・ローが北京にとって、放って置けない難敵だったということを示しているような気がする。
今度香港を旅行する時に、北京の印象とどう違うのか、気をつけて見てきたいです。
断っておけば、僕は中国のことが好きです。情緒豊かで、言葉に強くて、勉強熱心な人たちを尊敬している。制約が多いことは、それだけ工夫するということでもあるわけですから。必死さが、僕とは違う。
僕は、のびのび時間をかけて勉強させてもらえたし、病気もしたけど、十分な社会福祉によって、好きな本を読む生活を営むことができている。
よく友人と話すネタとして「好きか使命か」という二択の話をします。
あなたが学ぶのは、好きだからですか? それとも、何かの大義のためですか? と。
僕は、どちらかというと、人が学ぶのは、全体への奉仕のためだと思うタイプです。社会に知を還元する。なんてことができるほど、たいした人間ではないですけど。
中国の北京政府の感覚も、わからないではない。政治的空白を作ることはできないし、新たな政治体制を構想するのもできない。でも、民主派に対して強硬だということは、内的な弱さの表れでもある。
それにしても最近、文革の時期の日本の知識人の中国への好意的な発言を読んだのですが、一流の学者ですら、知識がなければ、隣の大国の体制への見方も、上滑りしたものにしかならない。
経済的な戦争、テクノロジーのインフレーション、世論の成熟、そして国家の維持。困難に直面するほど、中国は頑なになるでしょう。とても自然なことです。
***
中国の美文の重みを、いつも感じます。
詩に託して、上奏するのは、昔からの伝統です。
現代のマンドポップを聴いても、美しすぎる言葉で、何かを歌っている。
美しいのではなく、美しすぎる。
素朴だったことがない。あるいは逆に自然を歌いすぎている。
***
政治は権力で、昔はそういうのに惹かれていました。
文学畑の人間になってからは、政治はダサいものですが、ダサいと思えるのは、かなり幸せなんでしょう。
いつか僕は、自由のために闘うのか?




