三十三冊目『夜の鼓動にふれる』
「府雨の読書日記」三十三冊目『夜の鼓動にふれる』
『夜の鼓動にふれる』
著 西谷修
勤めている図書館の書架から書架へ。
切れている蛍光灯を探す日々。
その日は幸い蛍光灯は切れていなかったけれど、書架からはみ出している本を見つけました。
西谷修。ノリで買ったレヴィナスの『実存から実存者へ』の訳者(後で知った。なお積読)。
本書の著者です。
「戦争論講義」との副題。最近(この一年くらい)、戦争に関する地味な小説『制約の言語回路』を書いていることもあって、かなり興味のあるテーマ。
戦争の言葉の膨らみから始まって、その適用範囲の拡大と、反転して裏に入る現代に、僕は始終ワクワクして読みました。
面白いのですよ。
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不思議なことに、歴史の同時代人(最先端)というのは、多かれ少なかれ、その時代の特質を体現して考え抜いているみたいです。
歴史を追う様に、遡る様に勉強して、それでも先端はわからない。
それは、子供の時までなんだ。そう思う様になりました。
歴史を対象としてみる子供の時代から、歴史の中にいるプレイヤーとしての大人の時代への、漸次的な変化。
もしかしたら、大人として働くということが引き受ける日常性なのかもしれない。
つまり、大人は子供より多くの物事に触れられる。言いたいことは、それだけなのですが。
歴史にくるまるというのは、快楽だと思います。
歴史的な連続性を無視した作品は、大人には受け入れられない。
妥協なのかもしれないとは思います。よく言いますよね、迎合、みたいな。
でも、多くの大人の仲間入りを果たすには、単にレトリックが優れていたり、面白いだけでは、よくない。
例えばラノベに「新しい」がある様に。
純文学に芥川賞がある様に。
内在して肺腑が歴史で満たされる。その中で、切先にいる。
ぞくりとする。言葉にすると、その「夜」の気配は、全く滲み出てこないのに。
夜は、空間を空間たらしめている。
夜は、僕たちを規定し、僕たちに規定されている。
夜は、僕たちにとっては、自分の時間で、まさか「夜」が歴史のあり方の一部である「戦争」と繋がるなんて、思いもしなかった。
複雑では決してない。でも、歴史は常に新しい局面を求め、それに呼応する新しい表現に飢えている。
それがとても愛おしいと感じます。
注釈をつけるのもいい。新しい物語を故事になぞらえて作ってももいい。
でもコトは夜です。
正解はない。
だからこそ逆に、本気で取り組むことができる。
日常は戦争ではない。でも日常は戦争です。
自己実現のために、自尊心のために、僕たちは他者を「否定」して取り込み、承認を得ようとします。
そんなことばかりの歴史でした。
他者を「肯定」することはできないのか。
肯定することは敗北なのか。
戦争に敗北すると、一体どうなるのか。
どんなに泥まみれでも、生きている以上、その人の日常は続く。
太陽の照る中で、ぼおっと空を見上げて、何にもすることがないという悲劇にこそ、生きていると言える様な気がします。
実にマゾ的な実感が、このところ僕の脳を支配して離さない。




