三十二冊目『古典を生きる 吉川幸次郎対話集』
「府雨の読書日記」三十二冊目『古典を生きる 吉川幸次郎対話集』
『古典を生きる 吉川幸次郎対話集』
著 吉川幸次郎
井上靖 中野重治 桑原武夫 石川淳 石田英一郎 湯川秀樹
中退した大学の、先生の先生の先生(の先生?)何人遡ればいいのかわからないけれど、吉川幸次郎先生は、僕のいた研究室の大先生でした。
僕は中退もしてますし、勉強もしていなかったので、先生の本を手に取ることは今までなかった。
たまたま南大沢の文教堂で、この本が売っていて、何の気なしに手に取って、数日かけて読みました。
学問的にソリッドな知識(素材)が、先生から提示されることが甚だ多くて、それに少し悔しいなと感じた。
病気しなければ、僕もそんなふうになるために、大学で勉強していたはずなのにな、とか、思ったりして、悔しかった。
でも僕の豆腐のように柔らかい頭じゃ、とてもじゃないけど漢籍なんて読めない。それも、少し悔しい。まあそれはそれ。
昭和ではなくて、大正年間の人物として、自分を語っていたのと、江戸への言及が、先生を特有の時代背景のうちに閉じ込める。
知っている人が何人も出てくる。同時代人のリストがずらりと。こういう本を読んだことはなかった。
いくつも、興味深い発言があったけれど、僕の興味に触れたのは「面白さ」についての言及です。
文学は面白い。なぜ小説を書き、なぜ小説を読むのかは「面白さ」に理由がある。というようなことを書いていました。
僕は、くだらない小説を何作も書いていますが、僕が、考えたことを形にするのに一番有効なのは、小説にすることです。
僕の小説はつまらないかもしれないけれど、それでも、まるで気取ったように評論を書き、超然と生きるより、少しでも面白いと思ってもらえるような形で、考えたことを発表したい。
話す方が面白い。短編書きなよ。とかとか、言われても、僕はやっぱり、たらたらと考えたことを小説のキャラクターに語らせるのが好きです。
文学というのは、そういうものな気がする。なぜ文学をやるのか。文学が面白いものだから。すごい定義じゃないですか?
僕は、こういうの好きです。




