三十冊目『文学者とは何か』
「府雨の読書日記」三十冊目『文学者とは何か』
『文学者とは何か』
著 安部公房・三島由紀夫・大江健三郎
少し、体調を崩して、休みがてら暇を持て余している時に、読みました。
安部公房も三島由紀夫も大江健三郎も、全然読んでないから、言っていることが何もかもわからないかというと、そんなことはないです。
自分が、友達と、文学とか哲学とかを話題にして、話す感じと、そこまで隔たりはないなと思い、少し安心しました。
抽象性ギリギリのところを突いて、空虚きわきわの話をするから、特に三島由紀夫に関しては、実に力強いなと、別にファンでもないのにとろけてしまいました。
言葉に対する強いこだわりが、三者三様に浮かび上がってくるのは、府雨のこだわりとはまた違うけれども、僕たちの源流にあるもの、あるいは、やはり彼らが先達と言うべき人たちのように思います。
でも、僕は哲学色強く小説や文学に向き合いますが、それよりは、文学思潮を的確に捉えて、時代の最先端を走った彼らに、凄まじい羨望を覚えもします。
客観的な何かをわかって、思想から小説を作り上げていく。その理知性に、やっぱり偉大であると、思わずにはいられない。
会話が成立する、というのが、僕にはもう羨ましくてたまらないです。
文学を、「問題意識」という形で理解したいのに、やっぱり僕はあまり読まないから、わからない。
でも、それにしても、文体や日常性のようなものを主題にしているのに、ダイレクトに、汚い形で、文体にあたるのではなく、その抽象的なコアに向けて、言葉を発射するのは、さすがと言わざるを得ないです。
そして、「好き嫌い」という判断基準で「抜けていく」対談の最後なんかも、僕はたまらなく好きでした。
常に自分の相対最適位置を、ある程度の幅はありつつも捉え、そして話題の文学との距離感を測定する。
それは、独特な世界があるからこそできる、一種の特殊能力としか言えません。誰の二番煎じでもない。安部は安部、三島は三島、大江は大江であり、個性の裏に、ものすごい読書の跡が見える。
言葉が古くない。今の僕らが話す言葉で、この対談本は書かれていて、今の僕らが理解できる話が、この本に込められている。
五十年以上の隔たりがありつつも、僕は三島由紀夫や安部公房や大江健三郎を、同時代の人と思うことができる。
それがこの本の価値のように感じられます。




