二十九冊目『少年の君』
「府雨の読書日記」二十九冊目『少年の君』
『少年の君』
著 玖月晞
新潮文庫の翻訳で、ゆるゆると読んでいたところ、映画好きの同僚に映画があることを教えてもらい、映画を観ました。
翻訳は真ん中まで読んでいて、原書も一応取り寄せ、万全の体制。
翻訳は、読んでいた時は悪くないと感じたのに、映画を観て、情報の伝達が少しうまくいっていないような気がしました。
でも、なんにせよ、映画の高考の開始のシーンは、音楽もかなりエモーショナルで、思わず大学受験のことを思い出して、潤みました。
まだ何も成していたい人が、何かになろうとする。子供から大人になる。
手元に何もないところから始めて、徐々に成果を手にしていく。
小さい頃は、ゲームとは違うその難しさに、半ば呆れ返り、高校・浪人と誰かに助けてほしいという思いがありながら、結局、自分の問題は自分で片づけるという、当たり前のことにぶち当たりました。
助けてほしいと思ったことは、数限りなくあります。
愛情に飢餓的になり、狂うほど異性に惹かれました。
子供の頃は一貫していた意識や目標が、一度バラバラになる様子を、自分事として、つぶさに観察し、自我が崩壊していく中で、自分の素子をどう固着させるかが、大学以降の僕の人生になりました。
名目的な、観念のとしての目標は、ほとんど意味をなさない。
具体的な力を身につけるまでは、選択肢が限られている。
でもだからといって、力を蓄えなくていい理由はない。
作中の北京大学(北大)は、名目でもあり、実質でもある。
何も持たないのだと思ったことは、幾度となくあるわけですが、頑張っていれば大体誤差の範囲に収まると、よく言います。
相対的な持つ持たないの差を気にすることは、あんまり効果的じゃない。
北京大学に行ける人を羨んでも、手元にあるのは自分の高考の点数なのだから。
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作品に出てきたいじめも、恋愛も、学業という実質的な中身のない、精神の拡張作業の中で生まれる、当然の現象だと思います。
狭くて閉鎖的な世界の中で、外の人を求め、内の人の足を引っ張る。
内田樹が『下流志向』の中で、「相対順位を上げるためだったら、メンバー全体の能率を下げるように働きかけるのが、理に適った作戦だ」と看破されていました。(手元に本がないので正確な引用ではありません)
テスト前に男子が教室でミニ野球をしたりね。
僕も、高校生の頃好きになった大学生が、僕のことが好きで、助けてくれるんだと、妄想ばかりしていました。
地方都市から、北京を目指す「外」への志向は、本当は「私」が変わらなくてはいけないのに、環境を変えれば、「環境」が私を変えてくれると思う、一面的には正しい願望。
でも、そういう環境を勝ち取る「努力」は必ず必要だし、力を尽くさない人を助けてくれる人なんていない。
映画の中のヒロインは、北京を夢見て学力を積み上げる。それしか知らないし、それしか念頭にない。
それでいいと思うのです。
何かの役に立つとか立たないとかでいったら、勉強ほど役に立つものはない。実は北京はおまけなんです。
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ヒロインは、想像していた人物像より、少し色白で、よく泣く。
いじめ役の女の子の役者さんは美人で、表情もとても豊か。
ヒロインの相手役の男の子が、ヒロインの後ろを歩いているの、たまらない。
まだ僕の心は、青春の受験時代にあるのだと思うと、少し笑ってしまうのだけど。




