二十八冊目『読んでいない本について堂々と語る方法』
「府雨の読書日記」二十八冊目『読んでいない本について堂々と語る方法』
『読んでいない本について堂々と語る方法』
著 ピエール・パイヤール
僕は、この読書日記を書く時には、ほとんど本文を参照しないですし、漠とした印象に終始していますから、大変恐縮しています。
まあ、所詮日記ですし、レポートを書くのとは違うと思っています。
きちんと読まなくても(あるいは精読を怠っても)日記は書ける。
レビューとか、批評とも違うわけです。
でもこの日記に書いたものは、個人的には面白かったと思うものです。
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タイトルからしてすでに、結論はわかりきっている。(そんなことはないのですが、簡便のためにそう言っておきます)。
本というのは、僕的には数ページ読んだだけで面白いかそうでないかはわかります。
なんならタイトルだけで、ある程度のことは言えます。
昔からそう思っていたので、この本を読んで確かにそうだとうなずきました。
僕は小説が嫌いです。小説を書くのに、どうしてと思う人もいるかもしれませんが、ほとんどの小説は、僕に文体の変更を迫ってきますし、内容上の影響力も甚大だからです。
文章というのは(筆者も言っていますが)「私」の創造力を惹起する点において重要なのです。
何かの媒体から影響を受けるのではなく、そこに自分の言葉を乗せて語ることが重要です。
中国文学の古典を読むのは、めちゃめちゃ億劫ですが、概説書や入門書を読んで、なんとなく語れる雰囲気にしておくことに関して、僕は抜かりがありません。
本文でも言及があったのですが、そういう概説書は、一つの批評であり、創造であり、僕が小説を書く上での(というほど立派な書き手ではないのですが)頼もしい具体的素材です。
パイヤールのこの本のタイトル通り、小説を読まないまま、タイトルと作者のイメージだけで、漠然と話すこともしばしばです。
そういう時、大切にしているのは、その本を読んだ時の印象や好悪です。結果、総論的に作者をこき下ろすこともしばしばです。申し訳ないのですが、それは読者の権利だと思っています。
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全然関係ないのですが、僕は中国ポップスを聴きます。
中国語はほとんど聴き取れず、メロディとサウンドを追っているだけなのですが、実に楽しい。
実を言うと、タイトルも歌手の名前もうまく発音できず、Apple Musicのおすすめに従って、等什么君とか黄霄云とかの歌を聴いて、良いか悪いかが判断できる。
全てをわかっている必要など、ないんです。
大学の先輩と話していた時に、先輩が「全然勉強していない。勉強量が足りてないんだよね」と言いました。
僕はすかさず聞きました。
「勉強量足りてる人います?」
「いないかも」
「ですよねー」
勉強量が足りていても、記憶力が著しく欠如している人もよく見ますし、記憶力が十分以上でも、残念ながら咀嚼の力がなくて記憶力の持ち腐れな人もいます。
それに僕は思います。読んで自分の中にあることは、書いて形にしない限り、僕の前には現れて浮かび上がらない。
それに、書くと曖昧だった不明点が明らかになり、思考の整理につながるじゃないですか。
それを創造すると言うと、実に大仰で、関係ないと感じる人も多いかもしれませんが、創造行為は何かの作品を書き、百点を目指すことではなく、自分の理解を二十点から四十点に上げる、非常に効果的な学習法です。
創造とは作品を作ることではなく、自分の世界への解像度を引き上げることなんですから。
基本的に、何かを読み、何かを書くことは、おそらくこれからずっと続くことです。そういう時に、人から「読んでもいないのに」とか言われるのは、困りますよねぇ。




