二十四冊目『訂正可能性の哲学』
「府雨の読書日記」二十四冊目『訂正可能性の哲学』
『訂正可能性の哲学』
著 東浩紀
今年は、本を読む年にしよう。そうしよう。今日はパスタにしよう、みたいな感じで。
僕は、東浩紀と宇野常寛の違いが、あまりわかってないです。宇野さんの本は二・五冊くらいしか読んでおらず、東浩紀の本は、今回が初めてです。
固有名詞を覚えるのが苦手で、だから、小説はあんまり読まない。読めないのです。
大学時代に買って、崇高なる積読をしているフランソワ・ジュリアンの『道徳を基礎づける』の帯が、東浩紀との初対面でした。
東浩紀の率いるゲンロン叢書の、ユク・ホイ『中国における技術への問い』は、僕のお気に入りの本の一つですが、ゲンロンと聞いて(見て)、む、としたのはよく覚えています。
ゲンロンを率いている東浩紀は、論客タイプの人なのかなと、なんとなく身構えたのです。
論客はこのSNS時代、誰もがなる「職業」ですが、だからこそプロの論客というのに、僕は一定程度距離を置く必要を感じます。
プロということは、お金をもらっているわけで、利益誘導されている可能性がめちゃめちゃある。
生業にしているのだから、それだけ内容は整っている。外聞もいい。でも、本当に読むべきかどうか、僕はちょっとバイアスを持っていました。
面白いか面白くないかで言えば、『訂正可能性の哲学』は面白かった。一部と二部だったら、断然一部です。もっと「家族」の話をしてほしかった。
二部はルソーの話が中心で、ルソーの情報を仕入れるのは中学生以来なので、知的好奇心はあおられましたが、なかなか読むのが難しかった。なんというか、義務感で読み終えました。
僕が、なんとなく東浩紀を忌避するのは、政治を語るからな気がします。
政治が文学的言語によって語られるのは、僕は大賛成です。
でも、文学の役割が政治的な言論に還元されてしまうと、途端に「???」となります。
文学は個人的な人間を表現するためにあって、政治的集団を表現する、まさにそのことのために存在しているのでは「ない」。
人の行為の伝統的表現の方法として、政治がある。わかります。人の行為の伝統的表現方法として、文学がある。
でも、政治と文学は同様のものではない。
互いに敬意を持って反目している。交わろうとしても、境目が、くっきりとは言わないまでも、見てとることができる。
その領域上では、政治文学とか、政治哲学があるのでしょう。
でも、文学は虚構ですし、哲学は観念です。それらが対自的で孤独な営みなのに対して、政治は集団の在り方をめぐる方法論であり、集団化が生む権威と労働を、具体的なレベルでどう最適化するかという、対他的な営みです。
文学には書くという行為にのみ、価値があり、哲学は考えるという行為にのみ果実が与えられます。
世界に働きかけられない僕たちが、世界を作るために、文学はあります。哲学も、他者の存在を観念の中でこねくり回すと言う点で、文学の兄弟のようなものです。
でも、政治は違います。私たちは、世界の中、地球の上で生きる存在です。
その無力さに抗おうとする時に、僕は文学や哲学を用いるべきでないと思うのです。徹底的に、政治的に考えるべきです。
文学的比喩や哲学的批判思考の話ではありません。もちろんそれらはどんどん使うべきです。問題なのは文学や哲学で政治を表現することです。
(そう思うと、中国哲学の偉大さがわかります)
カテゴリーに凝っていると聞こえるかもしれません。それは本当に申し訳ないです。
でも、文学は文学のためのものですし、哲学は哲学のためのものです。
集団のための文学や哲学は、宗教であり、見事に政治と対置できる。そして、その、政治を説明するための文学・哲学的言説は、どこか宗教じみていて、抵抗感を生みます。
逆に言えば、文学の題材として政治を選ぶことも、なんとなくイデオロギー的で、個人的には受け付けにくい。
自分に失望してしまうのですが、文学上で、まさにその「民主主義」を語るために「民主主義」という言葉を使われると、うっ、と来てしまう。
民主主義をメタファーとして使うのは、問題なく飲み込めるのに、小説で民主主義の一派として政治的な主張をするのは「やっぱり何かに利益誘導されているのでは?」と身構えてしまう。
その身構えは、その文章のゲシュタルト崩壊につながって、読めなくなる。ページが進まない。
僕の食わず嫌いは、東浩紀が「ゲンロン」を率いているというバイアスによるものなのかもしれません。
そう。「言論」で戦うのは怖いですよ。自分の大切なものが、他人の言葉によって蹂躙される可能性を持ったまま、武器(言論)を持って、人の大切なものを踏みにじりに行く。
とても人間の所業ではない。政治はそれだけ、怖い世界です。
大切なものを政治から守るために、僕は哲学を学ぶ。当然です。「〇〇主義」に私の生が還元されるなんてあってほしくない。
文学が生まれるのは、何の理由もないですけど。それは、楽しいから、とは少し違うのですが。




