二十二冊目『その悩み、古典が解決します。』
「府雨の読書日記」二十二冊目『その悩み、古典が解決します。』
『その悩み、古典が解決します。』
著 菱岡憲司
レイアウトがめちゃいいです。読みやすい。
設定された「悩み」もリアリティがあって、よく練られている。
江戸の文章から引用されているのは、とても新鮮でした。
平安の文章を参照する本は、割とたくさんありますが、江戸ものなんて、『雨月物語』くらいしか読んだことないし、なんなら『雨月物語』すら、最初の二十ページで終わってる。(つまりほとんど読んでない)
引用されている文章を読むと、なかなかに町人文化を感じます。
僕たちが日常的に感じるような悩みを、斜め上から斬る。その論法は、僕たちが考える感情論理ドロドロのものではなく、カラッとして、悩みといい感じの距離感があります。
橋本のアリオのくまざわ書店で、同僚とフードコートに行ったついでに、買い求めました。
帯には自己啓発と書いてあって、自己啓発もいいなと思っているこの頃なので、買い求めました。
出典が古典ってだけで、こんなに雰囲気良くなるんだ。体裁が整うとはまさにこのこと。
あっという間に読んでしまって、読後感というと、ホッとした、感じです。
最近はこの日記を書くことが、目的化しているところがあって、読書という数時間は取られる営みを、いかに速く済ませるかという、身も蓋もないメンタリティでやっております。
本を読むと、必ず教養や教訓をひねり出さなくてはと思うことは多いですが、おそらく、読むことそのものが楽しければ、なんでもいいはずです。
自己啓発本というのは、そういう意味ではまさに最高。読みやすくて、美味しくて、なおかつ全く教養や教訓を含まない。親切設計。
自己啓発本差別ですか?
あんまり読まないので、仕方ないですよね。
自己啓発本ほど教訓じみたものもないと、お考えの方も、多数いらっしゃると思いますが、残念ながら自己啓発本に教訓はありません。
本を読んで教訓が身につくなら、みんな本を読んでいますし、本で問題が解決することは、まず間違いなく「ほぼない」と言って差し支えないです。
教訓は経験に依存するものです。
じゃあ何のために僕は本を読むのでしょう?
おそらく、楽しいから。
おわかりと思いますが、本を読んでその内容を暗記している人は、一部の人を除いていませんし、そもそも本は暗記のためのものではないですよね。
覚えているのは、タイトルと読後感だけです。タイトルも怪しいし。
じゃあ、何のために本を読むのか。
本を読むために読むんです。
逆に書く場合を考えると(少しは)わかりやすいと思います。何のために書くのか。
お金を稼ぐためなら、書くより割のいい仕事は山ほどあります。わざわざ書いて、何を得るのか。
書くことで、僕は頭の中のアイデアを可視化して、未来への手紙にするんです。
自己啓発本は、即効性を謳うことが多いですけれど、即効性のある知識は、速攻で頭から消え去ります。
読むことも、未来の自分への、知恵の贈り物です。
それは、例えば何かの悩みにぶち当たった時に、「そういえば読んだことあるな、似てる」とか「これ書いたことあるな、なんだっけ」という、本と印象がセットになっている記憶です。
村上春樹は頭の中に記憶の引き出しがあるとどこかで書いていましたが、その引き出しに所蔵されている本のありかは、一度触れたものであるなら、人間忘れないものです。たぶん。
ということで、『その悩み、古典が解決します。』の読書日記は以上になります。




