十七冊目『すべての、白いものたちの』
「府雨の読書日記」十七冊目『すべての、白いものたちの』
『すべての、白いものたちの』
著 ハン・ガン
文学が、何らかの一貫性を持って、何らかのメッセージを持って、何かの意図を持って成立しているということは、本当にあり得るのか。
面白いか、面白くないか。文字が生む快楽だけが、本当の文学性ではないか。
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白いものが、羽織り纏うイメージの清澄さが、この小説の第一義なのかと、最初は思いました。
でも読むにつれ、一義は徐々に背景に後退し、白いものが取り巻く「死」や「病」が克明に浮かび上がってきます。
全然的外れな解釈なことは、百も承知ですが、白は「義務」の色なのかと僕は漠然と想像します。
政治的な問いかけや、先に死んだ者から預けられた負債が、「義務」を思い起こさせるからです。
息をするだけで、生きていることを意識せざるを得ない、生者の義務感。
僕自身は、死に対しても病に対しても、文学を構想することはできません。つまらないことのように思えてしまうからです。
喪失感や空虚感に、文学者は様々な言葉を尽くしてきた。そういう意味では、ハン・ガンさんは、文学の正統なのかもしれません。
ところで、結局白とは何なのか。
僕は、白とは「人間」なのだと思います。
それは、ニュートラルな人間ではなく、空虚な人間でもなく、特別な人間でもなく、幸不幸を超越した、非不在的な存在ではない、「人間」。
小説のレトリックで、最後に教訓のような文句に飾られる人間ではなく、そこに「いる・ある」人間。
そこにいる。あなたはそこにいる、という強調された「存在」。
不在に寄りかかりすぎない、こちら側の人間の痛み、存在する痛みに、不在は(死は)初めて意味を持つ。
空白(ここに、日本語には白という字が入っていますが)は、不在ではなく実は存在なのだということを、ありありと見せつけられる。
そしてそれは、繰り返しになりますが、いかに苦しい存在の容態だとしても、普通の、ありふれた、よくある、人間なんです。
つまり、要約すると、軽薄に生きていようが、深刻に生きていようが、「白」であり、「人間」なのだということです。
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感想としてあるのは、「固有名詞がない外国文学ほど、読みやすい本はない」ということです。
人の名前を覚えるのが苦手で、なおかつカタカナで何人も出てくるのは、僕は我慢ができない。
でもそうすると、私(あるいは「僕」とか)と君(または「あなた」)だけで進んでいく、観念小説になりがちなのに、白が屋台骨になって、文学の呼吸する余地を、この小説は徹底的に残していました。
外国文学が翻訳されて、手元で読めるのは、とても幸せなことです。
僕は、科目で言うと国語が苦手で、外国語が得意です。
外国語を訳すことは好きで、小論文を書くのが嫌いです。
例えば、新聞に書かれた文章は、読めませんし、要約も苦手。
起承転結とか、段落の意味とかが、あんまりよくわかっていない。
そういうものを解説している文章や授業に当たると「なんてつまらない話をするんだ」といつも思います。
それなのに、外国文学の理路整然とした論理や、日本語にはない簡潔な表現に、いつも感心します。
なかなか能力開発がされていないことが露呈してしまいましたが、とにかく、矛盾を排そうとする翻訳家の努力に、敬意を表して、今日の日記を終えます。




