十五冊目『論理的思考とは何か』
「府雨の読書日記」十五冊目『論理的思考とは何か』
『論理的思考とは何か』
著 渡邉雅子
論理的、ではないと言われることが多くて、結構困っています。
僕の物事の認識は、一つ一つの事象が塊となって独立していて、塊の間のつながりは、不明瞭なことが多い。
概念が体系的に配置されると、それはそれで疑ってみたり、軽々にはうなずけない。
説明が流麗で説得的であることが、そもそも説得的でないことの証明な気がしてくるわけです。
わざわざ証明しなくちゃいけないのだから、いくら言葉の上で整合的に説明できたとしても、ねえ?
だからといって、僕の説明が説明的でない合理性を以て、人を納得させるかといったら、もちろんそんなことはないです。
言葉にすることに、それほどこだわりとか意識みたいなものがなくて、ロゴス中心主義的な信奉がそもそも身についていない。
言葉にすることのメリットは、自分の体に(脳に)言葉を流すことそれだけで、人に理解してもらうことは、そんなに大切じゃない。(僕にとっては)
自分のイメージやインスピレーション(横文字をわざわざ使うこともないですが)を、言葉にするだけで、幸せですから。
説明することが苦手だからかな。
コンテクストを共有している人と話すと、楽しい反面どこか厳密性を欠き、全く文化が違う人とは、喧嘩になってしまう(だいたい僕がだんまりしてしまう)。
論理的であるか、そうでないか。ではなくて、論理的にも種類があることを、この本を通じて知ることができたのは、かなりラッキーでした。
非論理的だと指弾されるのは辛い経験ですから。バカだと言われるけれど、こちらも「はあ?」って感じなので。
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言葉の字面での形式的・言語的な誤謬を論難される時は、いつも「わからないですか?」と聞いてしまう。内容的な言及がないまま、跳ね返されてしまうのが嫌です。
こっちは頑張って伝えようとしている。「歩み寄りはないのですか?」と聞きたい。聞かないですが。
わからないことを説明しようとする時にどもったり、口ごもったりする。そういう時に、助けてくれる人がいる反面、指弾してくる人もいる。
わからないこと、未知のことは原理的に語り得ない。わからないことのヴォイドを指し示すことしかできない。そういう時の非論理性は、本質的には聞き手に対する信頼に依拠しているという状態です。
つまりコミュニケーションは、柔らかくて傷つきやすい。
わからないという状況が解消されるのは、それが単に既知の問題だった時に限られます。
未知か、あるいは現時点では情報が足りないまま、会話を始めると必ず「定義が不十分だ」とか「君はどう思うの?」とか、会話の発端になっている人(僕)に責任があるような論調で、批判をする人がいます。
もちろん、前提となる知識を共有できたら、幸甚この上ないことです。でも経験を言語化することは、厳密にはできない。
批判する人の頭の中は、さぞや整理されているんだろうな、と、羨ましくなることも多いです。そういう人はおそらく知らないことなどなく、知らないことは知る必要のないことなんだと思います。
「それは別にどうでもいいことでしょ」と。
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論理はいくつかの型に分かれ、アメリカ・フランス・イラン・日本の四系統が、この本で紹介されていました。
なるほど確かに僕は日本的な書き方をしていると、にまにまする反面、筆者の言うとおり、他の国の系統・型も使えたら、きっと楽しいだろうなと。「楽しい」なんて本筋と全く違うのですが。
型の中で面白かったのは、イランの「暗記」や「暗誦」する「共有された法的知識」の存在です。
コーランやハディースを暗記する教育は、個人的にはとても魅力的に映ります。
暗記することを不要と唱える人、柔軟な思考こそが使える思考力という人は少なからずいますが、ある程度暗記しないと、世界は開けてこない。
もちろん、それはが将来もう覚える必要がない言葉になることはあると思います。
例えばトランプさんが、保護主義を打ち出すことで支持を集めていますが、保護主義がどれだけ戦争や紛争の火種になってきたかは、世界大戦の文脈から見れば明らかです。たぶんそんなことトランプさんは知らないか、あるいはそのつながりを非論理的と考えているに違いありません。トランプさんにとっては必要のないことです。
科挙の四書五経は暗記の対象でしたが、それが中国の近代化を遅らせたのは、多くの人が指摘することです。その後、多くの知識人が白話(口語)で文を書くことを始めたのですから。
でも文学や、法や、歴史を「暗記している」ことが、教養以前の知識として、どれだけ思考力の柔軟性を可能にしているのかは、論証するまでもないと思います。
知らない人は不自由ですから。
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「結論は?」
特にありません。
「オチは?」
関西で大学生をやっていましたから、よく聞かれました。
その時は、なんて失礼なやつだと思いましたが、この本を読んで思いました。関西の人にはそういうコードがある。倫理規範のようなものです。規範なので、皆従う。イランの人がコーランやハディースを学び暗記するのと同じです。オチへの探究心、奴らクンフーが違う。
アメリカの直線的な論理は、学術界での標準とされています。そのコードに従わないと「評価不可」とされてしまう。
だから、東京出身の僕は、関西で「評価不能」とされてしまったのです。
あの時は、憤りも酷かったし、大阪の友達とは何度も喧嘩したけど、コードが違うんだよなぁ。しょうがないですよね? 大体オチがある話なんて大した話じゃないですよ。だって、「わかる」んだから。本当に面白い話は、わからないことについて考え抜く時の、あの材料を揃えていく、RPGにおけるレベルアップする過程にあるんだから。




