十四冊目『富士山』
「府雨の読書日記」十四冊目『富士山』
『富士山』
著 平野啓一郎
何ヶ月かぶりに小説を読みました。
土日の夜、寝る前にひたひたと文字に目を浸らせて。
テーマがとても思索的なことで、平野啓一郎の右に出る人はいないと思いますが、本作でもそれは遺憾無く発揮されていました。
僕はまだ二十代なので、書くことは高校生くらいの時の思い出を下地にしています。
平野啓一郎が何歳なのかはわからないですけれど、大人の、どこか舞台劇じみた、子供っぽい単純化が、本当によく書きあらわされているなぁと、ため息が漏れます。
ページを進める手が止まらないのに、まぶたはもう降りかけて、布団をかけた胸の上に、ふわりと本のムササビを置いてしまいます。
単純化された構造の中に、大人というものはよく映える。この短編集を読んで思いました。
ストーリーに「意味」を持たせようとすると、プロットは複雑にはならない。意味が生じるのは「理解される」物語の上に置いてだけですから。(なんか暴論ですけど)
理解を拒むこと、説明を諦めることで物語は複雑さを獲得し、文学技術的な機能ではなく、文学構造的な普遍を獲得します。
機能と普遍を往復しながら、物語は構造と強さを糸のように練り込んで、一つの作品になっていく。
証明できないことを証明している数学者のようで、手元には数多の材料がある、知識がある。でも、原理的に証明はできない。
それにもかかわらず文学は不可知の岩に一石を投じるのです。
不可知なことが複雑なのか、それとも単純なのかはわからないし、不可知へのスタンスも人それぞれ。
作家としての「生まれ方」は、強固な立脚点として存在して、「正解」に近い作家がいるかもしれない。でも、「正解」にたどり着く作家は原理的に存在しない。たとえどんなに近づこうとも、神にはなれないのだから。
文学者の中に神はいない。文学者には文学しか生み出せない。どれだけ文学世界を創造しようと、世界を創造できるのは、神だけだから。
無限に説明するべきことがあり、無限のリソースがない以上、選択的に説明するしかない。それも、説明可能なものを「選択的」に説明する。
選択的に説明されたものは、果たして真なるものなのか。
記憶の欠片。不確かな印象。不確実な意思。人間の不完全な思惟が、不完全なものを生み出すことにどんな意味があるのか。
一つの優れた小説作品集である『富士山』は、世界の輪郭をなぞり、浮き彫りにした像を彫り出すことに成功しています。
優れた技術で彫られた彫刻のように、芸術的であり、芳しい意味を有している。
それは問いかけの中にすでに答えの種を有しているような、複合的な物語です。
小学校の時に、物語のオチは取っておいた方がいい。あえて考えさせるのも手だよ。そう言われて「そんな単純でいいのか? 答えを言うか言わないか、二択しかないのだが」と思った方も多いと思います。
でも事はそんなに単純じゃない。物語の中には、すでに語られて種がないものがある。語られてなくとも物語にならない、空疎でつまらない物語がある。
物語の中に答えの種を含ませるかそうでないかは、作家の自由です。でも、優れた物語は必ず種を読者の心に植え付ける。
記憶の土に染み込む雨のように。
***
うまく小説を賛辞することは、なかなかできない。僕は優れた読者ではないからです。
印象や記憶を留め置く脳の力が、若い時に比べて弱くなっている。それは残念なことです。
でも面白かったか、そうでなかったかは、はっきりわかる。昔は正直じゃなかったけれど、拙いものは不味い、巧いものは美味い。それははっきり言うことができます。
平野啓一郎の文章は、ひとつひとつが端麗で、喉越しよくつるりと飲み込むと、胃で栄養に変わるのが感じられました。
意味や構造が頑強ではっきりしていても読めない(面白くない)ものは、たくさんあります。
逆に面白いはずなのに意味や構造がブレブレで、読了できないものもたくさん。
二つの軸、意味と面白さが重なるところに読者はいる。そんな気がします。




