《贖罪》なんかじゃない
生まれた時から、人の生きる道って何となく決まっているような気がした。
自分で選んでしっかりと生きてるなんて周りや大人は言うけれど、実は自分で選んでるんじゃなくて、ただそう進んでいくしかない、決められた道があるんじゃないかと私はいつしか思うようになっていた。
人は誰しもが平等ってワケじゃない。
《器用》な人間は世の中を上手く渡っていける。
反対に《不器用》な人間は日の目に恵まれないどころか、自らを消滅させてしまう程の深い闇に追いやられる事だってある。
望んでも決して届かないモノはある。
手を延ばす事すら恐れる眩しい『光』は、実は『漆黒の闇』なんじゃないかと何となく思う。
ただ、それを認めるのは恐い。
だから、《妥協》という名の諦めの隠れ家に身を置くのが、今の私の決められた道。
それは決して自分で選んだんじゃなくて、そうしなきゃいけなくなった。
これもきっと何かから指示をうけて組み込まれたモノなんだと納得はしている。
だって、隠れ家を利用しているのは、私だけじゃないから………。
目立つ事はしない。
静かにひっそりと、適度にやんわりと人に不快感を与えず、決定的な印象すら与えないように、日々をやり過ごす。
《余計なアクションは起こさない》
それがこの現実を生きていく為の私の小さくも最大の防具なのだ。
だって、そうしないとね…きっと………。
「神谷さん…」
教室の北側の一番後ろで座る私の肩をポンと叩くのは、クラスの委員長の山岡佐恵さん。
「……。」
私は無言で振り向き、山岡さんから視線を外して、用件を伺い待つ。
「卒業文集の原稿、まだ提出できてないの…、後神谷さんと三谷君だけなんだけど…」
山岡さんは少し困った顔で私を見つめる。
しまった…、すっかり忘れてた卒業文集……。
まだ一行も書けてない。
「ご、ごめんなさい…。あの…、まだ…最後まで書けてなくて……。」
私はもごもごと口ごもりながら山岡さんにそう告げた。
「提出期限、明日までだから、必ず出してね。」
やれやれと言った感じでやんわりと愛想笑いを浮かべて小さくため息をひとつつき、山岡さんは歩き出す。
その行き先はもう一人の未提出者の三谷君の元。
「三谷君、卒業文集できた?」
賑やかな雑談がひしめく教室の中で、何故だか山岡さんの声がくっきりと輪郭を浮かせて耳に入ってくる。
「あ?…あぁ。」
南側の一番前の席で、眠た気な顔を山岡さんに向けて、机の中をごそごそと漁り、くしゃくしゃになった紙切れを三谷君は無言で山岡さんに差し出した。
「何よ…これ。」
山岡さんは不快感をあらわにして眉間にしわを寄せつつも、紙を伸ばして文章を確認する。
「ちょっと!何よこれはっ!ちゃんと真面目に書きなさいよっ!」
山岡さんは大声をあげて三谷君の机をバンッ−−!と叩いた。
賑やかな教室は途端にしんと静まり、その視線は一斉に山岡さんと三谷君へと向けられた。
「かなり、大まじめに書いたんだけどな。」
三谷君は面倒臭そうに嘆息して、やんわりと口の両端をあげる。
「ふざけないで!中学最後の大事な卒業文集なのに!
大まじめに書いた文章が『馬鹿げた毎日』だけって、一体どういうつもりよ!!」
山岡さんは三谷君を睨みつけて怒声を放った。
「読んだまんまだよ。ただそれだけ。」
悪びれる事もなくさらっといい放つ三谷君に、山岡さんはますます怒りのメーターを上げていく。
「そうやっていつまでも周りを受け入れずに自分から進んで孤立してくから!だからたいした思い出も何も残らないんじゃない!」
そう怒鳴る山岡さんに三谷君は、
「うぜーな。そうゆう自分勝手で押し付けがましい暑苦しさってよ…。」
そう言った次の瞬間−−−ガッッ!!と机を蹴り飛ばして立ち上がると
「テメーらの尺度を当たり前のように人に押し付けて!知らぬ存ぜぬで間違いを認めず歪んだ正義振りかざしやがって!
はっ、さぞ楽しい毎日だっただろうな!!」
三谷君は鋭い言葉と眼光を放ち山岡さんを見下ろすと、
「…クラスん中で人が一人死んでんのに、中学生活は楽しかったって笑うお前らの方が、俺はよっぽど頭がイカレてると思うね…。」
そうつぶやき、教室を出て行ってしまった。
蒼白して震える山岡さんの瞳からはぽろぽろと涙が零れていた。
周りにクラスメイトが寄り集まり、「大丈夫?」だとか、「佐恵ちゃんは悪くないよ」とか「最低だよ!三谷!」とか言って山岡さんを慰めている。
何だか滑稽だな…とにわかに笑いが込み上げそうになるのを堪えて、南側の一番後ろの席があった場所に視線だけをちらりと向ける。
半年前にはそこに席があり、確かに息をした住人がいた。
今はその息使いも、彼が存在していたカケラ−−空席すらないただの南側の一角。
(時間てのは本当に無情で残酷だね…)
何となく心の中で呟いてみた。
先刻の三谷君の凍るような冷たい目、言葉が頭の中で反響する。
(熱くなっても仕方ないじゃん…。そんな事したって山浦はもう、この世にはいないんだから)
徐々に喉の奥が詰まりそうな不快感を払拭したくて、私は深く息を吸い込んで、目を閉じてゆっくりと吐き出す……。
脳裏に浮かぶのは、山浦明彦の虚ろな顔。
彼は半年前に自らの手で生きる道を絶った。
この中学校の近くの山林で太い木の枝にビニール紐を巻き、首を吊ったのだ。
原因は表向きは『心の病気』
でも、本当の理由は………イジメ。
山浦は、このクラスでいつもひとりぼっちだった。
ううん、正確に言えば一人じゃなかったけど。
三谷君だけは、山浦の唯一の味方だったと私は思う。
このクラスで元々物静かな山浦に話しかける人間は誰もいなくて、いつもひっそりとひとりぼっちだった。
いつから、どうして山浦がこのクラスで孤立したのかは私にはよくわからない。
気がつくと、山浦は誰に話しかけても、なんの反応もされずにシカトされて、山浦明彦と言う人間の存在は、このクラスには無いモノと扱われていた。
勿論私も意味が解らずとも、何となくそのシカトに加わってた、いちクラスメイト−−−加害者だ。
理由は簡単。
自分を守る為だけという、本当に簡単な理由だ。
矛先が自分に向けられるのに怯えを抱き、何となく周りに歩調を合わせた。
自己防衛だと言うのは言い訳に過ぎない事も自分なりに理解しているつもりだ。
唯一話しかけていた三谷君も、このクラスでは元々別の意味で浮いた人間だった。
勉強も運動もよくできる人だけど、口数は少なくいつもどこか人を嫌い寄せ付けない空気を出していた。
何となく人に歩み寄るタイプではないと思ってたけど、山浦にだけは何だか心を許していたような気がした。
山浦の何に惹かれるのかは解らなかったけど、どちらかと言うと、山浦が三谷君を必要としているんじゃなくて、三谷君が山浦を必要としているようにも見てとれた。
でも山浦は死んでしまった。
彼の遺書には、
『僕は弱い人間です。ごめんなさい』
とだけ書かれていたらしい。
クラスメイトは皆、通夜で泣いてた。
後悔の涙?同情の涙?
多分、どれも当て嵌まらない。
そこには山浦の死を『悲しい』と感じる涙はなかったと思うから。
罪逃れの為の涙。それが正解かな……。
じゃなきゃ、たった数カ月でこのクラスが何事もなかったように平穏で穏やかな空気に包まれるワケがない。
このクラスで通夜の時に泣かなかったのは、三谷君と私だけ。
私の中に残ったモノは、紛れも無く逃れる事のできない罪の意識で。
三谷君に残ったモノは、きっと……怒りだろう。
何となくそう思う。
でも、私は心でそれを認めても、決して罪滅ぼしの言葉は口にしない。
だって、加害者は私だけじゃないから。
このクラス、三谷君を除く先生を含めた全員が加害者なんだから。
その加害者の誰もが山浦に対して贖罪の言葉を口にしないのなら、私一人が謝罪したってそれは意味がない事だと思うから。
加えて、死んでしまった人間にごめんなさいなんて届くワケがないから。
人は死んだら終わり。
ただ灰になり、骨になり、墓石の下に撒かれるだけ。
そこには人格も感情も思考も何もない。
そこには『無』しかないと私は思っている。
だから、山浦は死ぬ事を選んだ。
ううん、選んだんじゃなくて………
そうしなきゃいけない道が出来ていた。
その道へと進めたのは…………
(ほら…やっぱり人の道なんていうのは、自分で選ぶんじゃなくて、何かしら決められてるんじゃん……)
私は視線を教室の端から端へと流した。
先刻まで泣いてた山岡さんはもう元通りで、友達と称される人達に笑顔さえ浮かべている。
(なんか、気持ち悪い)
急に言いようのない吐き気に襲われ、私は立ち上がりトイレへと駆け込んだ………。
もう、こんな吐き気が半年間ずっと続いてる。
(卒業文集…書けないや………)
私は言いようのない不快感をトイレに吐き出しうずくまり、声を殺して震えた。
仕方ないんだ。
これも、自分で選ぶ事なくこうなってしまった道なんだから………。
私は《諦め》と言う隠れ家に身を潜める。
本当はこうするべきだって感情を押し殺して生きていく道を選ぶしかないのは………
仕方ない事でしょ?
だって、私は三谷君みたいに強くはないんだから……。
◇
三谷君はその日、学校へ戻る事はなかった。
それでも時間は当たり前のように進み、淡々と授業はこなされて、教室はいつもと何も変わる事なく賑やかさが溢れている。
私はその異質な空間に対する吐き気を感じながら、今日も仕方がないんだとやり過ごす。
結局卒業文集は書けないまま。
放課後、私の足は何故だろう?
山浦が命を絶ったあの山林へと向かっていた。
静かな山林。
まるで何事もなかったように、そこに広がる鬱蒼とした木々の景色を見つめ歩くと、何故だか緑色が黒に見える。
落ち葉は灰色にさえ見える奇妙な感覚に軽く目眩がして、足元がふらついた。
でも、私の足は止まる事なく山浦がいた場所へと進んで行った。
思考と行動がちぐはぐして気持ちが悪い。
指先が痺れを帯びて、体の奥深くから言い表せない震えが立ち上る。
「あ……、」
私は目の前の光景に小さな声を上げた。
「……神谷。」
私の気配と声に気付き、振り向き名前を呟いたのは三谷君だった。
私は立ち止まり、俯いて言葉を発する事ができずにいた。そんな私に、
「こんな場所に俺以外のクラスメイトが来るなんてな……。」
三谷君は皮肉混じりにそうつぶやくと、また木を見つめて立ち尽くした。
山林の木々の中で一際大きな存在感がある木が一本。
背丈はさほどでもないけど、幹はどっしりと太くて枝も丈夫そうだ…。
否応なしに枝の一カ所に視線が走る。
枝には、人工的な擦り傷の後。
あぁ…、あの枝に山浦が……………。
そう考えると無意識に両拳を握りしめ、唇をギュッと噛み締めてた。
「…山浦は…、本当素直過ぎるくらい素直な奴だった…。」
三谷君も私と同じように枝を見つめて、小さく呟いた。
「…自分があのクラスから孤立したのは、自分が至らないからだって…
知らず知らずのうちに、僕は人を傷つけているんだ。だから、みんなから嫌われたんだって……」
三谷君は震える声で、山浦の心の内を明かした。
「俺はそんな山浦の素直さが大好きで、大嫌いだった……。あいつに何度となく「理不尽と闘え」と言い放った。でも、山浦は…いつも「悪いのは僕なんだよ…」って………あいつは何も悪くないのにな………」
三谷君は声を詰まらせて俯いた。
震える背中から滲み出るのはきっと後悔と自責の念。
「どうして?どうしてもっとあいつを理解してやれなかったんだろう…
あいつの苦しさを少しでも取り払う事ができてたら…………」
「そう思って、三谷君が山浦の事で泣いてるのは、紛れも無い自分の素直な気持ちの選択……」
俯き、袖口で目元を擦る三谷君を見ていたら、自分の中の『吐き気』が言葉になり、溢れ出してた。
「…クラスん中で人が一人死んでんのに、中学生活は楽しかったって笑うお前らの方が、俺はよっぽど頭がイカレてると思うね…って三谷君の言葉、あれ…本当だよって思った。」
半ば驚き振り返る三谷君に、もうこの世にはいない山浦が最後にいたこの目の前の木に、私は鬱積した《吐き気》を言葉として吐き出す。
「でも私も山浦をシカトした加害者だから「本当だよ」なんて思うのは馬鹿げてる。
明るい教室に吐き気がするのも、何の気無しに笑ってるクラスメイトに目眩がするのも、馬鹿げてる。
これは自分が選んだ道じゃない!誰かが勝手に作った道を歩かされてるんだ!だから山浦が死んじゃったのは私のせいじゃない!って逃げおおせようとする自分自身も全部馬鹿げてる!」
こんなにも、怖いくらいに喉が震えて苦しいのに、言葉は止まらない。
「立派な加害者なのに!山浦にごめんねも言えない馬鹿な自分を、周りだって認めて謝らないじゃんてなすりつけて逃げおおせてる。なのに、クラスメイトに、教室に嫌悪感を抱いて毎日毎日学校来る度にトイレで吐いてる…。頭ん中と行動がちぐはぐで、でも、それは…仕方ない事なんだって………仕方ない事…なんだ…って………。」
言葉を吐き出すと共に、視界が霞み、頬から伝うモノが、セーラー服の胸元に弾け落ちて、枯れ葉にポタポタと落ちる。
「卒業文集なんて…………書けるわけ…ないじゃん…………。山浦が死んじゃっ…て…加害…者の私が…楽しい…ワケ………ない…………」
やっと言えた言葉。
《隠れ家》に逃げこんだ私。
自らが選んだ道を、誰かのせいにして逃げこんだ私。
今は自分自身が選んでこの場所に歩き訪れ、そしてこの場所で本当に言いたかった言葉がやっと言えた………。
それは決して罪償いにはならない。
自己満足なのはわかってる。
いくら後悔したって、謝ったって、山浦の命はもう戻っては来ないから……。
「逝ってしまった奴の気持ちは俺にも解らない…。」
三谷君はゆっくりと木に近付き、その幹をそっと撫でながら、
「死んだ人間に対して許して欲しいなんて、生きてる奴の勝手な言動だよな…。
だけどな、そう思わないより、そう思えるほうが俺はいいと思う……。」
三谷君は真っ直ぐに私を見据えて、
「後悔の気持ちは、一生忘れる事ができないから。忘れないって事は、同じ過ちを繰り返さないって事に繋がると思うから。だから俺も神谷も、山浦を絶対に忘れちゃいけない。『これからも生きていく人間』として。」
三谷君は寂しそうに口元に小さく笑みを浮かべた。
私は言葉なく頷き、木に深く頭を下げて両手を合わせて目を閉じた。
(本当にごめんなさい。山浦にした事、山浦の事絶対に忘れないから。……もう二度と、同じ過ちを繰り返さない為に…)
心の中でそう山浦に誓った。
山林から二人で帰路につく。
「卒業文集…書かなきゃ…。」
私は小さく呟いた。
「あぁ…、間違いなく俺も書き直しだろうな。」
三谷君はため息混じりに呟いた。
「楽しかった事なんて書けないけど…、鎮魂歌なら、書けるような気がするな。」
三谷君の言葉に、
「私も…同じ事考えてた。」
驚き混じりの私の顔を見つめて、
「神谷って、そんな表情もできるんだな…お前、いつも能面かぶってるみたいに無表情だから。」
そう言って口元に小さく笑みを浮かべた。
(仮面を外してくれたのは三谷君だよ…)
もちろん口には出せなかったけど、少し俯き歩く私の口元はきっとほんの少しだけ…………。