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だってさ、いたもん

 保は、ニシヨンの担当になってひと回り成長した。

 だが、新人のころから世話になっていた[暇人]に、まだ挨拶をしていなかった。

 久しぶりに[暇人]を訪れた保を、マスターは快く迎えてくれた。

 [暇人]に上がる階段室は、配達のときは気に留まらなかったが、改めて見ると、なかなかサイケデリックだった。

 壁にはめったやたらに貼られた告知ポスターが、蛍光灯や、赤や黄色のたくさんの電球に照らされている。

 目立つところに貼られているのは大学プロレスの頂上決戦。隣にはダンスイベント。のど自慢の公開収録に、店で行われる弾き語りライブ。これはもう、日が過ぎていた。そしてなぜかキャバレーのイベント告知まである。わくわく水着デー・・・・・・。誰かが無断で貼っていったのだろうか。ん? これは新しい。今週末、近くの浜でビーチバレーのエキシビジョンマッチがあるようだ。

 マスターは、自分が気に入ったポスターは剥がさない主義だから、自然に、重ね貼りの状態になる。元の壁がどんな色だったかは、天井近くの隙間を見ないとわからない。


 保は異動が決まって以来、[暇人]に顔を出していなかった。

 避けていたわけではない。

 旧担当地区の後任が正式に決まるまで、臨時で入ってくださった坪田先輩の「いいからこっちはオレに任して、お前は早くニシヨンに慣れろ」という言葉に甘えていたのだ。

 坪田先輩は、もはや好好爺の風格さえ漂う古参の専任課長で、かつて保が受け持っていたこの東浜五区も担当していた。というか、関東全域を熟知した、営業部の生き字引のような存在なのだ。

 ここ、東浜五区は、開業以来うちひと筋の古い顧客が多いのが特徴なので、坪田先輩の再訪問を懐かしむ店は多く、そのおかげで保は、優菜が退院したときに取った三日間の有給休暇以外のほとんどを、多根倉課長と一緒にニシヨンを回るのに使えた。

 覚えることは山のようにあった。

 ニシヨンは激戦区だけあって業者間のルールもいろいろだった。

 トマ缶の値引きは二号缶でいくらまでとか一号缶ならいくら、とか細かく決まっていて、これって闇カルテルじゃないのかな、という疑問を挟む間もなく、定期的に、サンプル伝票でコーヒー豆を入れる手口を伝授された。

 なんでも、客先で簿外の収入に化けるらしい。これにも業者間ルールがあって「やりすぎると当局に睨まれるからな、絶対に守れ」と釘を刺された。つまり、それだけやばいサービスということだ。

 しかし、そんな魔界のような地区に、いよいよ明日からはひとりだ。そうなれば東浜五区に戻ってくる時間はますます取れなくなる。

 そこで保は、最後の一日を、今まで世話になった店舗への挨拶回りに費やすことにした。

 一番は、久しぶりの[暇人]だ。

 サイケデリックな階段を上って木のドアを押すと、内側からちろりんとドアベルの音がして懐かしい匂いに包まれた。

 夏の日差しで収縮した瞳孔のせいで店内が仄暗く見える。何秒かして目が慣れると、マスターがまぶしそうな顔でこちらを見ていた。

 互いの姿を認め合った瞬間から、無沙汰の溝が埋まっていく。

 「おぉおぉ、珍しい人がきたよ」

 エアコンの冷気が肌を撫でて外に抜けていく。

 マスターは、カウンターの中で「入れ入れ」と手招きをしている。

 店に出てきてテーブルを拭いているのはここに座れ、という合図のようだ。

 「すいません、挨拶もなしで急に代わってしまって」

 保はマスターの前に立って頭を下げたのだが、マスターは謝罪には答えず、

 「どんだけぶりだぁ? なんか急にまじめんなっちゃったな、前みたくかったるいとか言わないんだな、もう。久しぶりに来たとおもったらいきなりすいませんだもんなぁ」と言って笑った。

 「なんしろさあ、いきなしおっさんがきて担当交代だって言うからびっくりだよ。でもたもっちゃん病気とかじゃなくてよかった」とうれしそうに言ってくれた。何と答えていいか分からなかった。

 そして思い出したようにちらっと目を上げると、「たもっちゃん、それかっこいいけどさ、暑くない? 上着脱ぎなよ」、と言った。

 隙を見せるな、という多根倉課長の教えで、保は、七月の炎暑もサマースーツで通している。でもマスターの前で流儀を通すのは、何となく上辺だけの見栄のような気がした。

 「はい、じゃあ」

 そう言って上着をとり、畳んで脇のスツールに置いた。この畳み方も多根倉課長の仕込みだ。

 「にしてもさ、あの坪田さんっていうひと、まじめだよね。ていうか普通のまじめじゃなくてなんて言うのかな、……まじめ面白い? 納品書なんて綺麗にふたつに折って、ちゃんとこっち向けてさ、で、角んところは開げ易いように三角に浮いてるんだから。あんな人いる? 缶詰も冷凍ものも全部入れ替えてくれるし、冷蔵庫んなか汚れてればちゃんと掃除もしてってくれるからありがたいんだけどね。だから、たまにはさぼってってくださいよって誘うんだけど、これがなかなか、まじめで。ようやくこないだそこに座ってもらって、いろいろ聞いたんだけど」

 そう言って顎で他も保の座っているところを指した。

 「言ってました? 坪田先輩、昔このあたり担当してたそうなんです」

 「うん言ってた言ってた。で、親父のこともよく知っててさ。なんかオープンのとき世話んなったんだって? 親父に話したら懐かしがっちゃって、いつの間にか連絡取り合ってて、なんかふたりで飲みに行ったらしいんだよ。信じらんないよな、堅物の親父とまじめな坪田さんが飲んで盛り上がってる図なんて。案外、黙って見つめ合ってたりしてね」

 マスターはそう言って笑い、でも何かおもしろくないんだよなあ・・・・・・まあ、でもいいか、俺にはたもっちゃんがいるし、などと言う。この人はこういう言い方をするからホモ説が流れたりするんだろうな、などと考えていると、マスターは声をまじめモードに切り変えた。

 「そう言えば、偉くなったんだってね? おめでとう」

 あまりに唐突なことばに顔の表面温度が一瞬でコンマ五度上がった。

 「まあ、実力っす」

 コンマ五度上がったせいで、返しは笑えないボケ。

 マスターは黙って手元の作業を続けている。

 ツッコミも感心もない放置状態に保の顔の温度がもうコンマ五度上がろうとしたとき、目の前に「これ飲んでみて」と目にも鮮やかな新作ドリンクが差し出された。

 グラスに作られていたのは三層に分かれた液体で「アルコールだめな子って、飲み放題だとウーロン茶とかジュースじゃん。それで同じ料金ってかわいそうだなって思って」と言う。

 まだ試作中だというそれは、キウイジュースとアールグレイティ、そしてブラッドオレンジを効かせた炭酸水をレイヤードで重ねようとしたオリジナルドリンクだった。最上部では、飾られたミントの森から炭酸の泡が弾けている。

 保は各層をストローで行ったり来たりして味を確かめ、そして、

 「紅茶のとこ、甘みが強いですね。食中ドリンクじゃ無理ですよ。それにしてもキウイの味、これ、何でこんなに強いんです?」

 保がそう言ってちらっとマスターを見上げると、マスターは叱られた子供のような表情をした。

 「やっぱりだめかぁ。でもキウイってあんまり香りないじゃん、だからだんだん濃くなっちゃって、ジュースって言うか、ほぼペーストなんだよね」

 主張の少ない素材は無理をするとネガティブが顔を出す。コツがあるのだ。

 「もっとシンプルに、ダージリンと合わせてクラッシュアイス使ったらどうです? 甘みは蜂蜜で少しだけ。炭酸でドライ感上げて薄くスライスしたオレンジで瑞々しさを出したらいいんじゃないかな。……ああ、あとキウイですけど、もっと粗く砕いて果肉感出して、ミルクジェラートに練り込むと美味(うま)いと思いますよ。イチゴジェラートとコーヒーの組み合わせはありますけど、紅茶でやるんなら、もしかしたらキウイの方がいいかもしれません。これ、ノンアルじゃ無理ですけどデザートドリンクなら受けると思います。仕込みでどこまでできるかですね……。あと、ブラッドオレンジ、これナマ使ってますよね。すごくいいです。でもだったら皮の部分の、オイルも使いましょうよ。フレッシュ感倍増しますから。手間もかかんないからそのままソーダで割ってノンアルで出してもいいし、ホワイトラムと合わせてミントを飾ったらカクテルでもお金とれるんじゃないかな」

 「あ、ちょっと待ってよ、そんなにいっぺんに言われちゃわかんないって」

 保は、カウンターの中に入り、アイディアをメモろうとするマスターの横でキウイジェラートを試作した。できあがったばかりをひと舐めしたマスターが感嘆の声を上げる。

 「美味い。たもっちゃん、俺の作ったのよりキウイ感じるんだけど。なんで?」

 「主張の弱い素材は思い切って正反対の味と合わせちゃうんです。そうするとぐんと浮いてきますから。これ、上司から教わったんですけどね」

 「さっすが、偉くなる人は違うね」

 多根倉課長から聞いたのは、本当は、レシピの話ではなかった。「影の薄いやつはな、思い切って正反対の集団に放り込んじまうんだよ。面白いことに、そうすると、いきなり主張始めるんだな、これが」という人事のコツだった。保が「影が薄い」と見なされていたのかどうかはわからない。

 マスターと保は、それからもああでもないこうでもないとアイディアを試して、十五分ほどで二種類のオリジナルドリンクを作り上げた。

 至福の時間だった。

 ……でも、まだ回るところがある。

 保は、まだ何か相談を持ちかけてきそうなマスターを遮った。

 「マスター、今度は、客として飲みにきます」

 「……うん」

 保は、マスターが送ってくるちらちらとした視線を感じながら戦闘服の上着を羽織り、商品カタログの詰まった鞄を手に、出入り口に向かった。

 そうだ、ひとつ言い忘れていたことがあった。

 「マスター」

 「うん?」

 「子供、生まれたんです」

 忙しくてこんな報告もしていなかった。

 「女の子だったでしょ」

 「ええ」

 坪田先輩に聞いたのかな。

 ……ん? 待てよ。

 言ってない。

 なんか誰も聞かなかったから、ばたばたで、男か女か誰にも言ってない! ていうか、何で誰も聞かないんだ、うちの事務所。

 「落ち着いたらおいでよ、前のメンバー呼んでお祝いしてあげっからさ」

 「いやいやいや、ちょ、ちょっと待ってマスターなんで? 今、女の子って言いましたよね」

 「ああ」

 マスターはさも当然のように笑った。

 「だってさ、いたもん」

 マスターはそう言って保の肩の辺りを指さした。

 「え?」

 「前に言わなかったっけ。あのさ、去年、アキちゃんとかマユとかがいたころ」

 ふたりとも大学卒業と共に辞めたという。今は、みんなからコウスケと呼ばれている髪の毛をピンク色にした男の子と、マスターの姪っ子だというまじめそうな女の子が手伝いに入っている。

 記憶の引き出しを片っ端から開けた。

 あのころ・・・・・・。

 「覚えてない? みんなで怖い話で盛り上がったじゃん」

 「あ!」

 その日がフラッシュバックした。

 差し入れたプチケーキを食べて、怖い話で盛り上がって……、店を出ようとしたときだ。マスターは保の肩の上辺りを見つめ、こう言ったのだ。「よかったね、たもっちゃん」と。

 「いたんだよ、あん時もう肩んとこに。パパさんの仕事ぶり見てたんじゃないの?」

 マスターはそう言った。



   ――――― ◇ ―――――

 


 保は、やっと眠りについた娘の顔を見て、自分の、中学生のころを思い出していた。

 生んでくれなんて頼んだ覚えはない。そう言って親に反抗したことがあった。

 でも案外、子供は親を選んで生まれてくるのかもしれない。

 いや、もしかしたら、神様に行き先を指定されてくるのかも。この人のところに行きなさい、と。生んでくださいってお母さんにお願いしてごらん、と。

 

 「ねえ、ほっちゃん」

 部屋の襖が開いて優菜が囁いた。手に雑誌を持ってラブチェアーに腰掛けると、

 「これ、ここだったら、ぎり、会社通えるんじゃない?」

 「どれ」

 保は赤ちゃんのように四つん這いで移動して、優奈が手にした住宅雑誌をのぞき込んだ。

 今よりもずっと郊外になるし、ずっとこだわってきた渋谷感もない。でも、3LDKならもうひとりできても大丈夫だ。

 「中古だけど注文住宅なのよ。しっかりしてんじゃないのかな」

 「ああ」

 「不動産って底値なんでしょ? 今」

 「ああ」

 「何よ、ああ、ああって。やなの?」

 「違うよ、なんか急に、俺の周りも変わってくんだなあ・・・、て」

 ちっという優奈の舌打ちが聞こえた。次はめんどくさいなぁ、と続くのだ。

 う、う・・・。

 娘の声がした。むずかる前兆だ。

 優菜と保は反射的に手を取って、ふたりして娘の様子を見守った。

 泣き出すまであと三秒だ・・・・・・。

 心霊現象は怖いものとして描かれることが多いのですが、それだけではないと思っています。もちろん、本当に怖い話もあるわけですが……。

 ご興味がありましたら、他の作品も読んでいただけると嬉しいです。

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