ニシヨン
営業活動も板につき、成績も上がり始めた。
ある日、保は上司の多根倉課長に呼び出される。激戦区であるニシヨン地区で重要顧客を競合会社に取られ、担当営業が意気消沈してしまって使いものにならないという。
保は、その後任を頼まれるのだが、妻の優菜は出産が近かった……。
翌年の初夏のある日、仕事を終わって帰途につこうとしたとき、保は多根倉課長に呼ばれた。
「タモ、ちょっといいか」
「すんません、女房が、もうパンパンなんで」
そう言って、保は自分の腹の上に大きな丸を作って撫でた。本当はまだ、予定日まで一ヶ月近くある。
多根倉課長は保の心を読んで言った。
「ばあか、酒じゃねえよ」
「へ?」
事務所にはまだふたり残っていて、パソコンを前に月締めの作業を行っていた。
「いいから来い」
課長は保の先に立って事務所を出ると、業者との商談に使っている入り口脇の商談室に入った。そして「まあ座れ」と言って先にソファに掛け、煙草に火を点けた。
「最近、調子いいじゃねえか」
「はあ」
「パーラー南のママ、しょっちゅう電話かけてくるぞ、お前指名でな。あとほら、喫茶ルビーとかグランパとか、あと、ええと、左内町のプールバーで……、なんつったっけ」
「イエロージャックですか」
「そうそう、もう業務の連中がたいへんでさ、忙しいときに限ってたもっちゃんたもっちゃんって電話掛かってくるもんだから。お前もあれか、そろそろ携帯電話っての? あれ、持ってみるか」
そういうことか。
「いらないっすよ、あんなの持ってたら昼休みもおちおち眠れないじゃないすか」
「お前が昼休みに居眠りするタマか。猫かぶりやがって」
「携帯電話だったら、前山さんに回してくださいよ。ニシヨンでがんばってんじゃないすか」
「その前山なんだがな」
課長は煙草を大きく吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出した。そしてもうひと呼吸して鼻からふた筋の煙を出すと、灰皿に煙草をもみ消して言った。
「つぶれた」
「え」
「エルムグループの渋谷店を取られた」
「え」
エルムグループといえば、営業二部の売り上げの柱だ。
「どこにですか」
「コスモ」
食材卸では、関東の最大手。この間の営業会議で、部長から、コスモの看板を見たら狙い撃ちにしろ、と檄が飛ばされたばかりだ。
「取られたって、もう確定なんですか」
「ああ、渋谷の店長はオーナーの御曹司だ。ほかの五店舗も時間の問題だろう。月五十万が五店舗、一年で三千万がこれだ」
右手を上に向けてパーのアクション。
「前山さんは」
「まいっちまってる。今日は早退させたけど、あれ、復帰してもしばらく使いもんになんねえな」
東京西四地区。通称ニシヨンは特別な営業区域だ。渋谷と原宿を含む激戦区で、第二営業部の売り上げの三十パーセントを占めている。
地区担当は歴戦のキャリアが務め、部下には勢いのある優秀な若手が選ばれる。前山は半年前、横浜の営業地区で三ヶ月連続単月歴代一位の記録を打ち立てて、華々しくニシヨンに異動した若手のホープだった。
その前山が……。
「そこでだ」
多根倉課長はたっぷりと勿体を付けてから言った。
「後任をお前に任せる」
「や、や、それは無理ですって。今ちょっと調子づいてるだけですし、それに俺、まるっきりのぺーぺーじゃないすか」
多根倉課長は、そんな保の反応を予想していたかのように立ち上がり、ソファに掛けた保の後ろに立って、そっと両肩に手を置いた。
「それなら心配すんな。異動と同時に係長にしてやる。部下もひとり付ける。配達はもうしなくていい。営業だけやってろ」
営業だけ。
成績が伸びなければ一切の言い訳が許されないポジション。その心配に、多根倉部長は先回りした。
「心配すんなって、エルムを取り戻せとはいわねえよ。その代わりコスモからでっかいのどっか、もぎ取ってこい!」
課長の手が肩の上でぎゅっと握られ、保は思わず「いて」と漏らした。
荷が重いなどと泣きごとを言ったところで、発令されればいやも応もない。サラリーマンにとって、辞令は受けるか辞めるかの二択だ。しかも今の保には辞める選択肢はない。優菜は今、出産を控えている。
それに昇進すれば、多少なりと給料が上がる。これから厳しくなる家計には、たとえ焼け石に水でもありがたい。
保は覚悟を決めた。
引き継ぎ期間は優菜の出産が考慮され、発令前に始めて、最長一ヶ月間まで許されることになった。しかしこれでも充分な時間とはいえない。
激戦区の担当異動は静かに、慎重に行われなければならない。ライバル社に担当交替を察知されると狙い打ちにされるからだ。しかも今のニシヨンにはもう、前任者がいないのだ。敵にとってこんなおいしい状況はない。
この絶体絶命のピンチのサポートには、多根倉課長自ら出張ることになった。こうなったら、ニシヨンに顔の利く課長と一緒にできる限り多くの顧客を回って隙がないことをアピールするしかない。
問題は、優菜の出産がいつになるかだ。
叶うことなら、引き継ぎを終えるまでお腹にいてくれれば理想的だが・・・・・・。
しかしその理想はすぐに打ち砕かれた。
異変が起こったのは、引継を初めてから二週間が過ぎたころだった。
床に入って灯りを落とし、うつらうつらとし始めた時だった。
うう、という呻き声に目が覚めた。
「どうした」
「……」
「ねえ、なに?」
「……ちょ、ちょっと待って」
息を噛み殺すような呻きがしばらく続き、優菜は言った。
「破水したっぽい」
「え?」
「だめ、かも」
「なに、どういうこと」
「やばい。これって陣痛なのかな」
「え」
「生まれるかもしんない」
「え、えええええ!」
保は跳ね起きた。
跳ね起きて灯りを点け、「ちょ、ちょっと待って、がんばれ」とか何とか言い、何が必要かと辺りを見回した。
いつも持ち歩いているバッグに、財布と、当座の着替え?
あたふたとし始めた保に優菜は「いいから、こっちはわたしがやるから、タクシー呼んで」と言い、左手でお腹を庇いながら立ち上がった。
保はサンダルを突っかけて家を飛び出し、表通りに向かった。
しかし深夜の旧道にクルマの通りは少なく、たまに通りかかるタクシーに手を振っても酔客を家に運ぶ賃走中ばかりだ。
保は足踏みしながら十分近くもそうして、ようやく、ほぼ可能性が無いことを悟り、頭を救急車に切り替えた。
保は坂を転げ落ちるようにして走って家に引き返した。
なぜだろう。家の前にタクシーが停まっている。一段飛ばしで鉄の階段を上がった。サンダルの片方が飛んで乾いた音を立てて道に転がった。
「優菜、タクシーが……」
「ばか! 電話で呼んでって言ったのよ。いるわけないでしょこんな夜中に!」
あ、そうだね、そうか、ごめん、そうだよね。
優菜をタクシーに乗せ、優菜が自分で中身を詰めたバッグを抱えて保も乗り込んだ。
幸い深夜の道は渋滞もなく、車内で再び始まった陣痛も何とかやり過ごし、病院に到着してタクシーを降りると、また陣痛が始まった。
がんばってくださいね、もうちょっとですから、と運転手にも支えられ、何とか受付にたどり着いて優菜を看護師に引き渡したところで、保は手で制された。
「じゃあ、ご主人はここで。何かあったら電話しますから」
「え、でも……」
「居てくださっても何もすることはありませんから」
にべも無くびしっと撥ねつけられ、保はすごすごと家に戻った。
電話が鳴ったのは明け方だった。
受話器からこぼれた看護師の声は明るかった。
「あれから出産になりまして、無事、女の子を出産されました。母子ともに健康です。どうぞ、お顔見にいらしてください」
はい、ありがとうございます。お世話になりました。そう言って何度も頭を下げ、電話を切ると両手でガッツポーズをした。
何もしていないのに男にやり遂げた感があるのはなぜだろう、と考えたのは何ヶ月も経ってからのことだ。