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カフェ グランパ

 保は、妻の懐妊を機に、仕事への向き合い方を変えた。

 悪戦苦闘の営業の日々が始まった。

 そこで、保はカフェグランパという店に巡り会う。

 

 妻の懐妊。

 その事実は、喜びとは別の感情を、保にもたらした。そして生まれて此の方考えたこともなかったことに考えを巡らす。

 今、優菜の体内に新しい命が在るという。

 自分と優菜に深い関わりのある命。

 それはある意味、自分の分身と言ってもいい。その、例えようもないほど親密な存在が、自分の知らない瞬間に誕生した。

 誕生って何だ? 

 生れる。

 ん? 生まれるってどういうことだ。命って何だ。

 優菜は優菜で生きている。優菜として飲み、食べ、眠り、社会と関わって金を稼ぎ、笑い、時には泣いて自らの人生を歩んでいる。

 そもそも結婚からしてそうだ。連れ添うという決断は並大抵ではない。まずは感じて、考えて考えて導き出した答。そうした経験や決断の全てが、生きるということだ。

 しかし胎児は違う。生きるという意志も、産まれる覚悟もなく、忽然とそこに現れた。

 どういうことだ。

 DNAや細胞分裂では主体を持った命の説明はつかない。その、理解を超えた命がすでに在る。妻の体内に。肉体的にいえば妻に生かされて。

 ……神秘だ。

 保は、責任ということばで表現できない重圧を感じた。

 そして、新しい命の存在は、仕事への向き合い方を変えた。


 ルートセールスのチームには本来、配達が終わったあとは新規開拓の営業が課せられている。

 しかしほとんどの部員はたいして営業などしない。たまに競合会社の契約店に入っても適当に飲み食いするだけだ。そして支払いのときには、上様ではなく、きちんと社名入りで領収書を切ってもらう。

 その領収書を貼った出金伝票を、上げ底の営業日報と紐付ければ「ランチでもケーキセットでも営業経費で落ちるから」、という裏技は、ルートセールスに配属されてすぐ、先輩から教わった。

 だからほとんどの部員は、配送が終わると馴染みの店に戻って時間を潰すか、それぞれ好みのさぼり場に車を停めて昼寝をしている。

 願妙寺の墓地の裏手にある長い坂道は、そんな営業車や配送車の溜まり場だった。周りに民家もなく苦情も出ないので、パトカーも滅多に回ってこない。数えたことはないが、バンにプリントされた社名は、おそらく十社を越えていたはずだ。

 おもしろいもので、停まる車にはそれぞれに定位置があった。あとから来ると分かっている者のためには必ず一台分のスペースを空けておく。いつしかそれが、ここのマナーとなっていた。

 保はまず、この坂道の常連から外れた。[暇人]で時間をつぶすことさえしなくなった。

 保は、配達が終わるとルートを逆に回って、新規開拓を始めた。

 走る方向を逆向きにするだけで街はまったく別の顔を見せた。

 通りにある飲食店に片っ端から会社のパンフレットを置き、店主から経営上の悩みを聞き、飲み食いして味を確かめたら、次に行くときはサンプルか、簡単な企画書を携えて提案営業をやった。

 この提案には藤村(たくみ)の飲食店経営の指南書、[復活! 逆転経営のコツ]を使った。

 藤村は何百件ものつぶれかけたカフェやレストランを甦らせた飲食店再建のカリスマだが、本格的に執筆を始めたのは足が衰えてからだ。しかし出版社が悪かったのか、まじめ一辺倒の書き方が受けなかったのか、内容がいい割にあまり売れなかった。

 保はそこに目を付けた。

 そして書いてあることをただひたすら、金科玉条(きんかぎょくじょう)の如く覚え込んだ。昼休みに、ちょっとした休憩時間に、渋滞の車上で、ラッシュでもみくちゃにされる通勤の電車のなかさえ無駄にしなかった。

 そしてその知識を、経営で悩む店主に語った。そう、まるでコンサルタントのように。

 当然、店主は目を丸くする。店を持ったこともない若造が次々に的確な提案をしてくるのだ。

 保は知識だけでなく身体も使った。

 客の入りが悪い時間帯があると聞けば、その時間、自分で店の前に立ち、カウンターを手に通行人の分析をやった。

 男女比、年齢の傾向、服装、ときには漏れてくる会話にまで耳を凝らし、そして分析した。この店前流動人口調査もまた、藤村の知恵だ。

 ランチの売り上げが伸びないと聞けば、自分で厨房に入った。

 普通この手の悩みにはメニューの見直しや宣伝の強化が解決策とされる。しかし藤村は「まず厨房を見よ」と説いていた。客を入れる前に、器である店の機能をチェックするのが大切なのだと言う。

 動線が交錯してミスが発生していないか。

 調理の工数は提供価格の十分の一以下になっているか。

 食器の数に余裕はあるか。

 調理人の立ち位置とコールドテーブルに収まっている食材の位置関係は適切か。

 やってみると、ほとんどの場合、なにかしらの問題を見つけることができた。

 改善提案は面白いように当たった。

 その結果、保が営業をかけた店はことごとく売り上げを伸ばし、感激した店長は、喜んで新規取引の契約書にサインしてくれた。

 だが、それは総合的にみると失敗に終わった。

 開店以来十八年の取引が続いていた喫茶ドンには一方的に契約を打ち切られたあげく、激怒した店長から油まみれのダスターを投げつけられた。

 保には何の落ち度かさっぱりわからなかった。

 店長は怒るばかりで理由を話してくれない。ダスターに染みた油の匂いは、そのまま心の染みになった。

 真相は、数週間経ったあと、店長の奥さんから聞いた。奥さんは、話し始めると、そのときのことを思い出したのか、感情を高ぶらせた。

 「あんた、うちらのこと何だと思ってんのよ。仲間だと思って一緒にやってきたのにさ。向かいのビストロ田嶋、あれ、行列ができてると思ったら、あんたんとこが安く入れてるっていうじゃない。それにどこだかの専門家連れてきてメニュー開発もしてさ、おかげでこっちは売り上げガタ落ちだわよ。そうよね、今はああいうおしゃれなとこが流行るんでしょう? だから乗り換えたってわけ。でもね、こっちだって生活かかってんのよ。時代遅れの喫茶店だって必死でやってんの。それをさ・・・・・・。うちの人なんてもうアタマ抱え込んじゃって、最近じゃ口もきかないわよ。もうあんたなんて、あんたなんて」

 奥さんの目には涙が浮かんいた。

 喫茶ドンだけではなかった。保がライバル店に営業をかけたことによって客の流れが変わり、既存の取引先が急激に売り上げを落としたのだ。

 何のことはない。休日返上してまで営業をかけた結果、獲得した新規の数だけ、古い顧客を失くしたのだ。

 同僚は陰でそれみたことかと手を叩いて笑った。

 ……場所が悪かったのだ。

 配達ルートを逆に回るという愚。街が違って見えるなどという思い上がった発想が、そもそもの間違いだったのだ。

 いい気になっていた。


 保は年が明けたのを機に、営業の場所を配達ルートから離れた千倉坂地域に変えた。

 そこにはライバル会社である浅野フードサプライの営業所がある。いわば、敵のテリトリーのど真んなかだ。

 回ってみると、さすがに防御は堅かった。いくら藤村流コンサルティング術を駆使しても営業のケアが行き届いていると、簡単には信用してもらえない。攻める側に立ってみて、ルートセールスの大切さが身に染みた。

 こういうときには、繁盛店を狙ってもだめだ。意地汚いかもしれないが、ターゲットは、やる気が空回りして数字が上がっていない店だ。

 地道な営業を繰り返しているうちに、紙ナプキンだけ、とか冷凍ハンバーグだけ、といった小さい契約が取れ始めた。そしてようやく、売り上げの核になりそうなターゲットを見つけたのは、営業を始めてひと月ほど経ったころだった。

 カフェグランパ。一年前にオープンしたフレンチカフェだが、業態としてはビストロに入る。

 オーナーの玄葉(げんば)譲治(じょうじ)さんは、初孫が生まれたのを機に長年勤めたフレンチレストランの料理人を辞めて独立した。

 店は、ロッジ風の喫茶店を居抜きで買い、内装は、剥き出しの丸太が気に入ったので、厨房だけ改装したそうだ。

 玄葉さんは、夢の実現を信じて疑わなかった。

 腕には自信がある。これからは自慢の料理で人々の舌を愉しませるのだ。そしてできることなら、身体が丈夫なうちに弟子を取って、技を伝えるのだ。そうすれば、料理には、永遠の命が宿る。

 そんな思いで臨んだ店だったが、売り上げは思うように伸びなかった。ランチをやったり、カラオケを入れてパーティーの仕事を請けたり試行錯誤したものの、所詮は付け焼き刃で、このままだと玄葉さんは、残りの半生を借金を返すことに費やさねばならない。

 何が問題なのか。

 フレンチで鍛えた料理はカフェのレベルを超えており、おそらく玄人でも唸らせる。しかし居抜きで買ったカジュアルな内装と料理の格がまるで合っていなかった。

 それにサービスの質も。

 オープンを手伝ったのは松島コーヒー店。以前、店が喫茶店だったときにコーヒーを入れていた老舗の業者だ。そこが、コーヒーや食材だけでなく、厨房機器から食器類、看板やオープンのチラシに至るまでの一切を仕切ったそうだ。

 オーナーシェフとして体験するオープンは、想像を超える忙しさだったに違いない。店のコンセプト設計に始まって役所への届け出や運転資金の調達、初期投資の回収計画、人材の確保やトレーニングなど、仕事は山のようにある。

 そんなときに客観的に、適切なアドバイスをするのが、諸事を請け負った業者の責任であるはずだ。しかし、どうやら松島コーヒー店の営業担当は一時的な売り上げに目がくらんでいたようだ。

 玄葉さんは、苦手な、しかし最も重要な店舗企画の一切を松島コーヒー店に丸投げして、自分はメニュー作りに逃げてしまった。

 店はコンセプトからして穴だらけのままスターとした。

 料理はフレンチなのに店内は丸太材を生かした山小屋風で、そこにアメリカの田舎を思わせるネオン管の装飾が施されている。これでは五千円の料理が七百円に見えてしまう。

 メニュー表は継ぎ接ぎだらけだった。訂正の跡はオーナーの迷いの表れだ。そのことは客にも伝わる。

 素人の接客スタッフは、ろくにトレーニングもされていなかったので、客が帰ったあとのテーブルはしばしば放置され、マガジンラックには古い週刊誌がそのままになっていた。

 保はまず、接客のトレーニングから手を着けた。女性ばかり三人のスタッフを全員、会社のトレーニングキッチンに招いた。

 講師には、二年前に定年退職して、今は嘱託として社史の編纂に当たっていた伝説のカリスマトレーナー、澄川恵子さんを拝み倒した。

 澄川さんは、会社がまだ直営レストランを持っていたころ、統括マネージャー兼研修センター長を勤めていた方だ。年一回行われるサービスコンテストでは、社長の名代として審査委員長を務めていた。

 年を取って多少は丸くなったとはいえ、鬼と恐れられた指導は健在だった。

 引き受ける条件も「期間は定めない」という厳しいものだった。つまり一週間ですべて身に付くなら良し、覚えの悪い生徒はいつまでも卒業させないということだ。

 もちろん澄川さんには最長期間の心づもりはあっただろう。しかし、そこまで達した生徒は、取りも直さず失格ということだ。

 研修の内容は、服装、言葉遣い、トレーの持ち方、食器の上げ下げ、店内巡回のしかた、わがままな客への対応、各人の役割分担、帰る客への心配りなど多岐に亘った。

 現役時代を彷彿とさせる厳しいトレーニングは、出勤前と定休日に行われた。普通なら業務の一環だが「ただで勉強させてもらえるだけありがたいと思え」という玄葉さんひとことで無給と決まった。

 実はもう、余計な手当を支払う余裕が、グランパには無かったのだ。

 しかしずぶの素人に細かい指導の意味が分かるはずもない。意味が分からなければ、無休の研修は苦痛でしかない。

 始めのうちこそ素直に澄川さんの指導に従っていた彼女たちだが、十日も経つと地が出始めた。無断欠席したり、澄川さんが厳しく指導すると椅子を蹴って帰ってしまうこともあったという。

 澄川さんは、そんな彼女たちの態度への不満を保にぶつけ、保はもって行き場のない苛々を家庭に持ち込み、いよいよもってすべてが崩壊しかけたそのとき、変化が訪れた。

 たとえ嫌々であっても、彼女たちに刷り込まれた適切な動きは嘘をつかなかった。

 食事の終わったテーブルはすぐに片付き、客が手を上げる前にそっと脇に立つ気配りができるようになった。店内は整頓された状態が維持され、それだけ乱れを発見し易いようになった。

 澄川さんが意図したとおり、整然とした動きは客に快適なサービスを提供することになり、客は、そのサービスに対する返礼として、スタッフに笑顔を見せた。そうすると、スタッフの顔にも自然と笑みが宿るようになる。

 気がつくと店内は、灯りがひとつ、またひとつと点くように、明るくなっていった。

 三人がめでたく澄川道場を卒業したのを機に、保はそれまで練っていたメニュー改訂を玄葉シェフに提案した。

 ポイントはまず、フレンチの看板を下ろすこと。そしてメイン料理は、デミグラスとホワイトソースの二種類のシチュー。これを野趣を感じさせる盛りつけにして、木こり料理と称するのだ。これなら内装の雰囲気とも合う。味は、玄葉さんの腕なら間違いないはずだ。

 シチューに使うキノコは保の郷里、山形の農協で働く旧友に助けを求めた。訊いたら「雑キノコでよければまだある」という。雑キノコとは、見た目に多少の難があり種類も雑多な山キノコのことだ。それを大量に買い付けた。

 早速、ふつか後に届いた段ボールを開けると、厨房は、濃厚な森の匂いに包まれた。箱のなかには、見たこともない、種々雑多な冬キノコが一杯に詰められていた。

 心配になって「こんなの食べられるんすか」と玄葉さんに訊いたら、真剣な顔で「ばか」、と返された。どうやら宝の山だったようだ。来年からは計画的な仕入れを考えた方が良さそうだ。

 早速、玄葉さんと一緒に仕訳し、軽く影干してから裂いて冷凍にした。こうすると、キノコは香りが上がり、しかも通年で提供できるのだという。これは玄葉さんの知恵だ。

 煮込み料理をメニューの中心に据えると調理の工数が減り、内装の格に合った値段で提供できる。煮込み料理を上手く使えということは藤村の[復活! 逆転経営のコツ]にも書いてあった。

 仕事に余裕が生まれれば、玄葉さんがもともとやりたかったジビエ料理も提供できる。


 メニューを変えて一ヶ月が経った。

 スタッフのサービスも、もう堂に入ったもので、コートのお預かりサービスなども始め、手順も定めていた。彼女たちの努力を裏切ることは、なんとしても避けたい。

 ある日のこと、保は店に呼びつけられた。

 ランチ終わりの休憩時間。

 玄葉さんは保を伴って事務所に入ると、書棚から一冊の台帳を取り出し、黙って机の上に投げた。

 どさっという重い音がした。

 数字によくない兆候が現れているのだろうか。

 思ったほどシチューが出なかったか。いや、中間でチェックしたときには順調だったはずだ。だとすると何が・・・・・。

 雑念の澱がひと通り沈むと、事務所は静寂に満たされた。

 保は覚悟を決め、台帳を手に取った。

 それは、売り上げではなく、仕入れ台帳だった。

 「たもっちゃん、あんたんとこに変えるよ、そこにあるの全部。明日にでも見積もり書いて持っといで。あんたにできんのはこのくらいしかない。開店以来、ようやっと黒字だ。感謝してる」

 怒ってばかりだったオーナーは、そう言って深々と頭を下げた。

 保は初めて、客の前で泣いた。

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