優菜の大切な話
[暇人]を心の拠り所にする、運転が苦手なルートセールスマン・保が優菜と結婚したのは一年少し前のこと。
ふたりは風変わりなアパートにも順応し、慎ましくも楽しい暮らしを送っていた。
優菜はその日、ひとりで出かけ、帰ってくると……。
金杉優菜が保と結婚して水澤優菜になったのは、一年と少し前のことだ。
新居となるアパートはふたりで相談して浅黄町に借りた。
渋谷から急行で二十五分という立地は、初めてのふたり暮らしには贅沢だが、大学が近いこともあって意外に安いアパートが多かった。
しかし家賃の安いお得な物件には、たいていひと癖かふた癖ある。
ひと癖目はおかしな間取りで、ドアを開けるとすぐ、玄関だかキッチンだかわからないような狭い板間が出迎える。
そこから右に向かって二間の和室が続いているのだが、廊下がない。だから奥の間に行くのには真んなかの部屋を突っ切らなくてはならないのだが、なぜかその部屋には窓がなく、閉め切ってしまうと昼間でも真っ暗になってしまう。
内見したときは、何をどう考えたらこういう間取りになるのだろうとふたりで首を傾げたものだが、家賃も手頃だから何とか工夫してみよう、ということになった。
若いふたりが、このおかしな間取りに適応するのに大した時間は要らなかった。ふたりには共通の友人がなかったので休みの日に誰かをもてなしたり泊めたりする必要がなかったし、そもそも新婚生活なんて、子供が秘密基地で遊んでいるようなものだ。ほどなく間取りのことは忘れてしまった。最近では、使いようによってはなかなかおしゃれだ、とすら感じ始めている。
ふた癖目は本当に安普請だということ。入居時に隣に挨拶に行ったらいきなり「夜十時以降はトイレの水、流さないようにお願いします」と言われて面食らったのだが、住んでみて理由が分かった。この建物には防音という概念がないのだ。
隣の部屋のテレビの音がうるさいというのはよく聞く話。しかしこのアパートは、夜中だと、壁の向こうのデジタルウォッチのアラーム音が聞こえた。
それでもふたりは順応した。
見るとはなしに周りのようすを見て自分たちの生活をそれに合わせ、テンポも合わせて、最後は不満や怒りを感じる感情の物差しまで変えてしまった。
それは暗黙のルールというより、カメレオンが背景に合わせて体の色を変えるような、一種の擬態かもしれない。ただ、環境に溶け込むというのはそういうことだろう。
いったん馴染んでしまえば、トイレの排水管がたてる滝のような音や外飼いの犬の遠吠え、なぜ聞こえるのか分からない鶏の鳴き声も、家族の生活音と同じで、むしろ心を落ち着けてくれた。
優菜は今年、夏休みを取り損なった。
それで、もう冬に差し掛かろうというこの時期に「遅い夏休み」だと言い張ってまとまった休みを取り、もともと夏休みのなかった保にも休暇を付き合わせた。
最初の二日は、お互いの実家にそれぞれの両親を訪ねて過ごし、後半はふたりで映画を見に行ったり秋もののバーゲンを巡ったりした。
優奈はラッソーでスナフキンが着ているようなニットのワンピースを買い、保は、レッドフリッカでビンテージのジーンズを三本試着して、結局一本も買わなかった。
残りの日はグルメ雑誌でみつけていつか行こうと決めていた兎月庵で蕎麦打ち体験をやった。粉はちょうど出たての新蕎麦で、不揃いな見た目はともかく、鮮やかな蕎麦の香りは蕎麦好きのふたりを大いに満足させた。
そして一週間ぶりで出勤し、たった二日でやってきたこの週末は、いつもの待ちかねた感がなくて、日曜日にはもう、完全に暇を持て余していた。
優菜は、そんな週末にさっくりと見切りをつけ、ひとりで早く起きると、予約していたクリニックと美容室を回り、一気に夕食の買い物まですませて、心地よい疲労感を味わいながら帰途についていた。
今夜はカレーだ。
セロリとズッキーニと、たっぷりのトマトを炒めてスープを足し、そこにローズマリーを練り込んであらかじめローストしたチキンのミートボールを入れて煮る。
取り出した肉にニンニクを利かせたオリーブオイルを垂らし、それでノンアルコールのシードルを楽しんだら、残った野菜スープに、カレー粉と、少しのカレールーを入れて食事にするのだ。見切り販売の野菜を上手に使うと、ふたりで三百円もかからない。
思い切ってショートにした髪は殊のほか軽く感じた。髪の毛って何グラムあるんだろう、などと上目遣いに前髪を覗いたとき、優菜の額にぽつりと雨粒が落ちた。
西の空を振り返ると、さっきまで薄明るかった曇り空は、もう半分以上が黒い雲に飲み込まれ、目で動きが分かるほどのスピードで境界線を動かしていた。
アスファルトに落ちた雨粒がぽつっぽつっと音を立てた。
じきに本降りになる。
雨脚から逃げるように慎重に駆け、カンカンと音をたてて鉄の外階段を上がり、ドアの鍵を回したころには、雨音はかなり強くなっていた。
ドアを開けると、石油ファンヒーターの排気の匂いがした……。
いやな予感。
この音は、もしかして。
奥の部屋に入ると、案の定、保はテレビに夢中だった。
「もう、雨きたら洗濯もの入れといてって言ったでしょうが」
このアパートにはベランダがないので、洗濯ものは軒先に渡した物干し竿に吊すしかない。少しの雨でも直撃なのだ。
さっきまでの心地よい気分が一気に反転した。
優菜は窓を開け、てきぱきとハンガーやらピンチラックやらを取り込んで、まったくもうあんたは、何で気が付かないわけ、明日も雨なんだからね、などとぶつくさ言いながら保に洗濯ものを押しつけた。
保は優菜の髪を見て「あ」、と言ったきり言葉が見つからないようだ。
優菜は、はいはい、サッカーがいいところだったんでしょう。ゼルビアはここを勝てば決勝リーグ進出だもんね。チーム創設以来初めてなんだからそりゃあサポーターにとってもめでたいことなんでしょうけど! という胸一杯の愚痴は飲み込んで、それでも「ちょっとくらい濡れてても明日着てってよね」とだけ言って保を睨んだ。
うん、と答えた保の目は、もう画面に戻っていた。
その直後。
ゴオオオオル!
アナウンサーが叫んだ。
「よぉし!」
保が鋭い声を上げて拳を握る。
そして画面に二対一の表示が踊っているうちに長いホイッスルが鳴った。
保は全身に走る衝撃をそのまま発散して「すげえ! すげえよ!」と叫び、弾けるようにして立ち上がった。
観客席の前を走る選手たちの頭は、誰かが投げ込んだ紙テープにまみれて輝き、保の頭には蛍光灯の紐が乗っかっていた。
ばかみたい。
優菜は洗濯ものの仕訳もそこそこに、壁際に置かれたラブチェアーにどっかと腰を下ろし、改めて保を見上げた。
いつもそうなのだ。保はどこか滑稽で、ばかみたいで、でも憎めない。
「あんまり騒いでるとまたぁ、隣から怒鳴り込んでくるよ」
「だいじょぶだよ、隣も同じの見てんもん」
優菜は「はあ」、と相づちともため息ともつかない声をもらし、背もたれに頭を乗せて天井を見上げた。
これだけ趣味の合わない夫婦も珍しい。
でも合わないが故に楽しいこともある。
結婚前のデートは、ふたりが一回交代で仕切る約束だった。しかし約束はほとんど守られず、三回に二回は保が仕切った。
初めて連れて行かれた場外馬券売場は今のように明るくはなくて換気も悪かったので、場内は人いきれでむっとしていた。
レースが始まると、目をぎらつかせた男たちがテレビ画面に向かって一斉に怒号を上げた。「行けぇ」は分かったが、「差せぇ!」というのは意味が分からず、ただ怖かった。
階段は沸騰したヤカンみたいに煙草を吹かす男達が競馬新聞に見入って座り込み、上るのも下るのも、その間を縫っていかなくてはならない。保はこともなげにするすると移動するのだが、優菜はぶつかったら怒鳴られるのではないかと、付いて歩くだけで冷や冷やした。
適当に買った馬券が当たった。タカバロンとテンメイジェットの一、二着で配当は三十八・二倍。馬の名前はシンボリルドルフしか知らなかった優菜にとって、生涯忘れられない馬名となった。
初めて、野外フェスでロックを聞いたのも保とだった。
耳を塞いでもなお、内蔵を刺激する心地よいビート。点にしか見えない演奏者に向かって拳を突き上げる快感。夏の空の下で飲むビールのおいしさ。それでロックが好きになったかといわれるとそうでもないのだが、年一回のレインボースタジアムは年中行事になった。
あとサッカー。
保ときたら優菜があきれるほどの運動音痴のくせに、スポーツ観戦は大好きなのだ。特に好きなのはサッカー。
一説によると、サッカーはその昔、戦いで討ち取った敵将の頭を蹴って遊んだのが始まりだという。つまり、死闘の延長線上にあるスポーツ。その観戦にのめり込む理由は、もしかして闘争心への憧れだろうか……。
反対に、優菜が保に与えた体験もあった。
そのひとつがタカラヅカ。
追っかけるほどではなかったにせよ、あの、昭和の少女漫画をそのまま舞台に乗せたような、独特の世界観には、惹かれた。
あとそう、その少女漫画……。
優菜は一時期漫画家を志していた。大学でも漫研に所属していたし、二ヶ月だけだが、あの荒木ナユのアシスタントを務めたこともある。しかしその体験が、却って夢を萎えさせることになった。
スマートな画風とはかけ離れた仕事場の雰囲気。殺伐と剣呑と、なんというか常に一触即発の緊張感。とても付いていけないと悟った。
タカラヅカも舞台裏ではそうなのだろうか。絢爛豪華な衣装のなかは妬みと権謀でぴりぴりしているのだろうか。
そんなことを考えていると、舞台を見ていてもふっと現実に戻されることがあったのだが、そのタカラヅカに保がはまった。
少女漫画なんてもちろん読んだことはないだろうし、衣装だってストーリーだって、男性にはさぞかし甘みが強すぎるだろうと優菜は思うのだが、カーテンコールで拍手を送り続ける保の横顔は贔屓のストライカーがゴールを決めたときのように輝いていたし、一度なんて涙目になっていたし……。
価値観がいっしょだから。
趣味が合うんで。
そう言って結婚を決める人は多い。でもどうなんだろう、と優菜は思う。
どんなお気に入りのおもちゃだっていつか飽きる。
人はある日とつぜん生牡蠣のおいしさに目覚めたり、嫌々連れて行かれたキャンプが大好きになったりする。人生は思うようにはいかなくて、でもそういうのも含めて出会いであって、だから刺激的でおもしろい。
趣味や価値観の一致で結婚相手を決める人は、一緒に暮らしていくなかで僅かな差異を発見して悶々とするか、こんなもんかとあきらめて一ミリずつ破綻に向かうのではないだろうか。
まあ破綻は大袈裟だとしても、冷めるということは充分にあり得る。
そこへいくと、優菜と保の生活には飽きるという心配がなかった。毎日は不満と刺激と、驚きと感動にあふれていた。
ふたりはまるで仲の良い犬と猫みたいなもので……、でもそこはやっぱり人間で……。
「ねえ」
優菜は興奮さめやらぬ保に声をかけた。保はゴールのリプレイに見入って「すげえ、すげえ」と喜びを反芻している。
優菜はリモコンをとってテレビを切った。
「何すんだよ」
保が振り返る。
「ほっちゃん」
一語ずつ切るようにゆっくりと言って、ラブチェアの右半分をとんとんとする。
いきなり昔の愛称「ほっちゃん」と呼ばれた保は口をアルファベットのOにして驚いている。
「あ、いいんじゃないそれ、かわいいよ」
そう言って保は優菜の隣に腰掛け、短く切った髪に指を差し入れた。
ああもう、とくすぐったさに身をよじり、優菜は保の手を押さえた。
「俺も切っちゃおうかな、派手に」
「ほっちゃんはいいでしょ、必要ないし」
「必要あるさ、優奈が切ったんだから俺も」
「あのさ、話あるんだけど」
「なに」
「何だと思う?」
「んー、福引きで旅行が当たった」
「ぶー」
「じゃあ、芸能人に会った」
「ぶー」
「あ、富士テレビのドッキリにはまった」
「ばかね、あんなの芸能人だけよ」
「ああ、じゃ、あの例の、陰険なマネージャーが異動んなったとか」
「ぶー」
「じゃ何だよ、申し込んでた駐車場に空きがでた」
「ぶっぶー」
「わかんねえよ。・・・・・・あ、太った?」
「ちょっとね、殴るよ」
優菜が怒った振りをすると、保はけらけらと笑った。
「あ、でも。ちょっと当たってるかな」
「へ?」
「やや当たり」
「なんだよそれ」
保は優奈の身体を上から下まで見て、ちょっと不思議そうにして、それからはっとして優菜の顔をのぞき込んだ。
すると優菜は自分の下腹部を指さし、
「ベビーがね、いるの」
「……」
「まあ、わかってたんだけどさ、今日クリニック行ってちゃんと診てもらって、順調だって」
保はすげえ、と言ったきり言葉をなくしてしまった。ただ、目は、優菜が指さした辺りに留まっている。
「どうした? まだ、欲しくなかった?」
保はようやく顔を上げた。
「んなわけ、ないじゃん」
優菜は突然抱きしめられた。ぎゅっとではなく優しく、イチゴに添えるメレンゲのように柔らかい力加減だ。この力加減はもしかして、ベビーを気遣ってだろうか。
でも少し拍子抜けだ。保の性格からして、爆発するように喜ぶと思ったのに。
サッカーで使っちゃたのかな、感激する感情。
「あ」
保はそう声を発すると優菜を放し、目を中空の一点に据えた。そして意を決したように優菜に視線を戻すと「引っ越さなきゃ」と言った。
「え」
「だってさ、こんな壁の薄いとこ夜泣きでもしたら追ん出されちゃうって。それに空気だってよくないし。あ、ベビーベッド! やっぱいるよな。お客さんで、子供大きくなって邪魔んなったって言ってる人いたんだ、まだあるかな。訊いてみなきゃ。ベビーカーも。ほらやっぱエレベーターもないのに二階で子育てなんて無理だって。あ、こんど服見に行く? あれ、どっち? 男、女」
優菜は、噴水のように吹き出す保の想像に大笑いして、それから「ちょっと落ち着きなさいって、まだわかるわけないでしょ」、と大きな子供をなだめ、それでも、保が、やっぱり動揺するほど喜んでいることを知って、幸せな気持ちになった。
遠雷が花火のように響きわたり、トタン屋根を叩く雨音が拍手のように聞こえた。