[暇人(ひまじん)]という店
平成三年、初秋のこと。
水澤保は、西に傾き始めた太陽に目を眇ながら[S&Cフードサービス]のロゴの入った白いタウンエースを配送先の駐車場に乗り入れると、ハンドルを大きく右に切った。
停止寸前で一旦クラッチを切りコラムシフトのギアを抜いてニュートラルにしたら、惰性で動いているクルマを完全に停止させる。
続いてクラッチを二度踏んでからほんの少しアクセルを煽り、シフトレバーを優しくリバースに当てるとギアはスコンと吸い込まれていく。しかし、この儀式めいた手順を少しでも間違えたり省略したりすると、走行距離七十万キロのタウンエースは盛大な金属音をたてて抗議した。
儀式が終わったら、半開きにしたドアから首を出し、慎重に駐車スペースに入れる。
ゆっくり、ゆっくり。
これが一番嫌な作業だ。
後輪がみしり、みしり、と音を立てて砂利を踏み、クルマの後端が伸び放題のヨモギの葉を揺らす。
だめだ、この位置だと搬入口とずれている。
やり直し。
何度か切り返してようやく決まったと思ったら、今度は駐車位置が斜めになっていた。
が、まあ……。
良しとしよう!
そう見限って勢いよくハンドブレーキを引くと、車内にジジジジっとノッチ音が響いた。
保がひとりでのルートセールスを許されるようになったのは三ヶ月前。営業部に異動して半年以上経ってからだ。普通は一ヶ月で見習い期間を卒業するのに、半年近くかかったのには理由がある。
ペーパードライバーだということを考慮してもなお、運転がど下手だったのだ。
保が所属する第二営業部の若手には顧客店への食材の配達の仕事があるので、営業車はワンボックスのバンになる。このころの営業車といえばマニュアルが当たり前で、しかも貨物車はコラムシフトだった。
教習所のクルマしか知らない保は、ハンドルの向こう側のシフトレバーがあること自体が初体験なので、まず、どこがローでどこがバックなのかを覚えるところから始めなくてはならなかった。
高い運転席も、重くて水平に近いハンドルも、やたらと多いミラーも、何もかもが教習車と違った。
操作を覚えたら、次の試練はクラッチワークだった。
低グレードの営業車はエンジンが非力なので、貨物を積めば積むほど運転が難しくなる。素人の保が坂道発信しようとすると、車はずるずると一メーターも下がり、交差点で右折しようとすれば、二回に一回はエンストした。
緊張すればするほど注意は正面に集中し、商店街ではサイドミラーを歩行者に当てたこともある。杖を振り上げて追い縋る男性をミラーの端に認め、心で詫びつつ必死で逃げた。
指導係で半年間助手席に乗っていた年下の先輩、大島直樹は、社に戻ると「ひえぇ、今日こそ俺、まじ死ぬかと思った」と言って業務課に転がり込むのが日課となった。そこで「おぉよしよし」、と女子社員に頭を撫でられながら今日あった危ない場面を大げさに再現し、ひとしきり盛り上がる。それが大島の日課になった。
しかしまぁ、慣れれば何とかなるもので、人の六倍の期間をかけ、車に三つ四つのひっかき傷を付けたころには、何とかひとりで配送コースを回れるようになり、めでたく独り立ちとなった。
それでも、保にとって運転そのものが大変な神経労働であることに変わりはない。今でも、配達先に着くとまず、ハンドルを抱え込んで息を整えなくてはならなかった。大島が言っていた「まじ死ぬかと思った」は、今や実感として自分自身に向けられている。
そんな保にとって、喫茶アンドスナック[暇人]は恰好の休憩場所だった。ここには気安く呼び合える関係になったマスターがいて、雑草だらけだが広々とした駐車スペースはいつも空いている。
今日は連休前の配達日で、週末にはパーティーも入っているらしく、商品はいつもの倍以上あった。
冷凍ピラフやピザクラスト、オマール海老のテルミドールや白身魚のフライといった冷凍食品、シュレッドしていないホールのゴーダチーズが一個、煮込みハンバーグ用のデミグラスソースとケチャップの一号缶、そのほかエバミルクやスライスマッシュルームなどの小さい缶詰類、アイスコーヒー用の豆が一ケースとスティックシュガー、そしてこの店専用に仕入れているナポリ産のリングイネ五キロとファルファーレ三キロと紙ナプキンの大箱と洗剤、その他諸々で、保はクルマと二階を四往復して、ようやく運び終えた。
「ああぁぁ、しんど」
笑う膝を手のひらで押さえ、思わず漏れたひと言に、マスターは「世間並みに休もうとすっからだよ。ったくサラリーマンしてないで店に合わせろっつうの」といつもの返しだ。
「あっ」
思い出して車に駆け戻り、保冷ボックスから、昼前に配送先のデパ地下で張り込んだブラッセリー杏樹のプチケーキの詰め合わせを取って戻った。
「これ、どうそ皆さんで」
「うそ! え、すげぇじゃん」
おおぃみんな、タモっちゃんから差し入れ、冷凍もん片したら休憩しようぜ、と奥に向かって声がかかると、厨房から「あざっす」という野太い声が返ってきた。
マスターには世話になっている。
営業と顧客という関係を越えてよくしてくれていて、結婚記念日だと言ったらボーンチャイナのカップアンドソーサーをペアでいただいたし、母が自転車で転倒して入院したときには、どうやって調べたのか、病院に、花とフルーツ缶が届いた。
歴代の担当者によれば「あいつはホモ」なんだだそうだが、こんな若造の結婚記念日を祝ってくれて、家族の災難にも気を遣ってくれるなんて、いい人過ぎるにもほどがある。だからこうして、たまには差し入れもしたくなる。当然だ。ここは月木コースの大切なオアシスなのだから。
早速、ホールのアキちゃんとマユがアソートのプチケーキを巡って盛り上がっていた。
「佐々木さんもぉ、早く来ないと好きなのなくなっちゃうよぉ」
いつもほとんど姿を見せない佐々木省吾さんは、もう十五年以上、ほぼひとりで厨房を切り盛りしているという。
小型の月の輪熊のようなシルエットの佐々木さんが厨房からのっそりと現れた。差し出されたケーキの箱の上で、指先は少し迷って、木イチゴの乗ったのをひとつ摘んだ。風体に似合わないかわいい選択だ。佐々木さんは「ごちです」、とちょっとだけ愛想を見せて、また厨房に消えていった。
夜はバーテンダーになるマッさんは、クルミの乗ったタルト。
「まったぁ、マッさんそればっか」
「しょうがないだろ、だってドライフルーツ苦手なんだから」
「あ、すんません」
「いいよ、俺ナッツ好きだから」
保が一日コーヒー漬けなのを知っているマスターは、気遣ってアイスティーを用意してくれている。
笑顔と、いつもの心配りに心が和む。
「そういえばさ、梶原っちがさ」
アキちゃんが小皿を配りながら唐突に話し始めた。
「ブラックカラントで踊ったあと、行ったんですって、出征トンネル」
「え、うそ、だめだよあそこ行っちゃ」
アイスティーを注ぎ分けているマスターの手が止まった。アキちゃんに向けられた顔は不吉に曇っている。
「だめだってあそこはマジでほんと。他のところと違うんだから。遊びで行っちゃだめなんだよ、ほんと居るんだから、やばいのが。知らないよ取り憑かれたって」
思いがけないマスターの勢いにアキちゃんは少し戸惑っている。
「ええ、でも、それで何でもなかったっていう話なんですけど」
「そういう舐めてんのが一番危ないんだって。テレビでやってるようないい加減なのと違って、ほんとのは、静かにこっそり憑くんだから。あとで何かあったってしらないよ」
「そんな………、じゃお祓いとか、やってもらった方がいいんですか」
「効かないよそんなもん。行った時点でもうアウト」
「えぇぇ」
曰く付きのトンネルに肝試しに行った梶原政光さんは、店では比較的新しいお客さんで、アキちゃんの彼氏だ。
アキちゃん目当てで半年も通い続けた梶原さんを、アキちゃんは最初のころこそ面倒くさそうにあしらっていたけれど、今ではちょっと梶原さんが姿を見せないだけで不機嫌になる。
「まあ、当分うちにも来んなって言いたいとこだけど、まあそういうわけにもいかんしな。まあ、もう、なんだな、何もないように祈るしかないわな」
アキちゃんはしゅんとなって、えぇぇ、とか言ったきりうつむいてしまった。
出征トンネルは通称で、正しくは藤岡第三隧道。太平洋戦争のとき、出征兵士がこのトンネルを通って町を出て行ったためにこの名がついた。
戦争では多くの若者が徴兵された。
万歳三唱で送られていった若者の多くは、入隊したあとで、戦況の実態を聞かされた。
戦地に赴く海上でほとんどの船が沈められてしまうらしいこと。そして、たとえたどり着いたとしても、前線には武器どころか食料さえない、ということを。
次第に脱走する兵が増えた。捕らえられた脱走兵には制裁目的の特別訓練が科せられた。それでも、死なない程度に手加減されれば幸運だ。なかには見せしめに本気で殴られて命を落とした者もいたという。この町の若者にも、そうした犠牲者が何人かいた。
脱走兵を出した家族もまた、悲惨な目に遭った。非国民扱いされて食料の配給から外され、闇でも売ってくれなかったらしい。仕方なく、隣町で食料を調達するために、持っているものはすべて売り、母親は、ついにカラダまで売ったという。噂ということになっているが真偽は定かでない。
一度脱走した兵は、戦地で死んでも遺品が戻ってこなかった。それが脱走の履歴のせいなのか、戦況が悪化したせいなのか、これも真実は分からない。
ただ、霊は故郷に帰ってくる。
霊は、家族に合わせる顔もなく、弔われることもなく、泣きながらずっと出征トンネルに淀んでいるのだという。
よくトンネル内の照明が切れるのも、突然、風が切り裂くような音をたてるのも、兵士の霊が泣いているのだということになって、トンネルを使う人が減った。
そして四年前、片側二車線の新しいトンネルが開通したのを機に、出征トンネルは立ち入り禁止となった。今そこを訪れるのは心霊スポットマニアだけだ。
ところでマスターが心配するのは出征兵士の霊ではなかった。「あんなのデマ」、とまるでダウンジャケットからはみ出た羽毛のような扱いだ。
マスターが言うには、比較的最近、ここで子供が迷子になって死んだ「らしい」というのだ。「たぶん間違いない」と。
そんなニュースはないのだが……。
しかしマスターは、あそこには明らかに子供の霊がいて、入り口付近に立っていると、近付いてその者の背後に回り、奥へ奥へと押すのだという。
実際、柵を越えてなかに入る若者はあとを絶たない。市が何度柵を作り直してもロープを張っても無駄なのだ。
そして侵入した者のほとんどが転んだとかぶつけたとか言って怪我をして帰ってくる。そのくせ記憶は曖昧で、写真も動画も残っていない。
「ほんとだって。こんくらいでさ」
そう言ってマスターは立ち上がり、手を、子供の頭に乗せるような形にして腰の高さで止め、話を続けた。
「幼稚園か一年生くらいで、たぶん男の子なんだけど、その子が泥のついた顔を上げて、声もなく笑うんだよ。でさ、その顔が問題なんだけど……、目が、ついてないんだ」
一瞬の沈黙があって、そのあと、ふうっと緊張が緩んだ。
「ちょっとぉ、マスターやめてくださいよ。もぅお、ほらアキちゃん見て見て、とり肌」
マユが自分の二の腕を撫でる。
「ええ、マスター、そういうことなんですか?」
ふたりのあまりの反応の良さにマスターが思わず笑みを浮かべると、なんとなく「そういうこと」になってしまった。
マスターは霊感が強い、とはあくまでも本人の弁だ。「波があって、今ちょっと敏感な時期に入ってる」のだそうだ。
半年ほど前、マスターのおばあさんの家が火事になったときは、その三日前に男性の霊が夢に現れて火事を予言していったという。
火事は本当になった。
おばあさんはマスターから注意するように言われていたのを思いだし、煙の匂いですぐに避難して焼死を免れた。
火は発火直後に天井を回って玄関を類焼したから、火元を確認しに行っていたら家から出られなかったはずだという。
マスターはこの話を何人かにしたものの、出火場所が台所で、やかんを火にかけたまま寝てしまったのが当のおばあさんだったことから、予言という神秘性がなくなり、いつしか忘れられてしまった。
でもマスターは保にだけ別の話を補足した。
おばあさんも若いころ霊感が強い時期があったそうで、だから要するにそういう家系なのであって、それでマスターの忠告を軽く考えなかったから避難に躊躇いがなかったのだ、と。運命ってそういうことなんだよね、と。
保はその話を聞いても、歴代の担当者のように馬鹿にしたり、笑い飛ばしたりしなかった。心から、見事だと思った。
マスターの話には独特の世界観があって、いくつもの話の関連性には些かの矛盾もなく、美しい。しかも語り手としての技術も玄人はだしだったから、もはや芸の風格を備えているのだ。心霊譚といっても、いたずらにおどろおどろしいところがなくて品がある。そして、どこか人間味を感じさせる。愛があるのだ。
だからマスターの怖い話を聞いていると、いつの間にかみんな、肩を寄せ合っている。
そんな、計算され尽くしたような気配りが、食器からメニューからイベントに至るまで、随所に行き渡ったのが[暇人]という店だ。
当のマスターは今、アキちゃんとマユに顔を寄せ、新しい話を語っている。
「ほらあそこ、あの隅んとこね、あそこ溜まり場みたいになってんだよね。何体か居着いてんだよ。あ、霊の話だよ。ほら、ゲーム機のテーブルあんじゃん。あそこなんてさ、お客さんがゲームに夢中んなってっと、霊がお客さんの後ろから画面のぞき込んで、一緒に盛り上がってんの」
「ふふふ、そうなんですか。でもね、もう騙されませんけど。ねえ!」
マユはそう言って笑い、アキちゃんと目を合わせてもう一度「ねえ!」と言って同じ方向に顔を傾げた。
「でも悪い奴じゃないからいいんだ。たまに新顔がいたりさ。なかには人間と見分けがつかないやつもいて、そういうのはちょっとびっくりするけど。要するに、こいつら寂しいんだよな」
そう言って客席の何もないところを見つめ、ふっと軽く笑った。
芸が細かい。
それから保と[暇人]の面々は、時を忘れて二十分も駄弁った。
もう時間だ。
受領書にサインをもらって入り口で店内を振り返り「ありがとうございました」と頭を下げて再び顔を上げた、そのときだった。
保は違和感を感じた。
マスターの顔。
何か変だ。
何が変なんだろうと考えていると、マスターはすすっと近付いてきた。そして二メートルの位置で対峙したとき、初めて違和感の理由がわかった。
目が合わないのだ。
マスターの目の焦点が、ほんの少しずれている。なんだかそのまま異次元に引き込まれそうな、奇妙な感覚に囚われた。
三分にも感じる三秒が過ぎ、ふっと現実が戻ってきた。
また何か言うつもりだな、と保は身構えた。
「よかったねタモっちゃん」
「は?」
「大丈夫だよ」
「なんっすかいったい」
「あ、そうなんだ、ごめん」
「何がです。・・・・・・何ですよぉ、言ってくださいよ」
「聞いてないんだったらまあいいから、忘れて」
「そこまで言っといて忘れてはないでしょう」
「ごめんごめん、でもまあ、運転には気をつけてね」
そのあともマスターはまともに答えてくれなくて「いや別に」とか「ま、いいから」とはぐらかし続け、結局何も教えてくれなかった。
保はそんなマスターの悪のりが楽しくて、いつまでもずっとじゃれていたかったけれど、次第にあとの店のことが頭を占領し始めていた。
シャルルのママさんは暗くなってから行くと機嫌が悪くなる。
「じゃマスター、来週また」
保はそう言って[暇人]に別れを告げ、運転に向かって気を引き締めた。