ルーシア・レヴァンタル
ルーシアとアイリスの出逢いは、ひと月ほど前に遡る。
その日、「塔の平原」に一匹のスライムが現れた。
葛餅のような奴だ。身体に核らしい核はなく、灰色がかった半透明のボディは水たまりが立ち上がったようにも見える。スライムというだけあって輪郭は定まらず、立ち止まると重力に負けた球形になり、動くときは川が流れるように動く。
まだ「アイリス」ですらない。
定まっているのはただひとつ、スライムの目指す石塔だけだった。
草原は見渡す限りの青だ。青過ぎて白みがかった空と、活力に満ちた曇りのない緑が世界を二つに割っている。遠目には、なにかが潜んでいることさえわからない。100サイル(約100センチ)ほどに伸びた草の中を音もなく這い進む。鼻先まで近付かれてようやく気付いた馬が悲鳴を上げて逃げていく。ときおり潜望鏡のように「目」を出して周囲を確かめる。塔はもうすぐだ。
三方を山と森とに囲まれて、草原は地平線まで緑に染まっている。
その中心にぽつんと、年季の入った石造りの塔がある。
茶柱。
……浮かんだ単語を慌ててかき消す。首を振る代わりに葛餅ボディがぷるぷるぷると震える。
気を取り直して塔を見上げた。
情報は確かだった。いやはや想像通り。中に棲むのは厭世の偏屈魔術士か、囚われの姫君かという代物。ファンタジーだ。ファンタジーである。
「ファンタジーのよう」ではない。地球にもあった「幻想的な場所」ではない。
ここは異世界なのだった。純度100パーセントの現実が、空を飛び、火を吹き、唸りを上げるファンタジーの世界だ。
スライムは、期待を隠し切れないぷるぷるの動きで塔の壁にへばりついた。
結論から言うと、姫君がいた。
が、囚われというほどではなかった。想像していた「囚われ」とは違うだけで幽閉ではあると言ったらそうかもしれないが、塔の中に醸されている雰囲気に後ろ向きさは感じられない。メイドたちは忙しそうだが明るいし、少女くらいの齢に見える姫君は、世を儚むというより単に「ぼけっ」としているだけに思えた。
療養中の御令嬢だ。
塔は、少女を閉じ込めるふりをしている。
石垣を組むのと同じ要領で積み上げられた石の隙間に、苔が生して鋭い棘を作っている。城塞の壁にも使われるトガリゴケは、ヒカリゴケと並んで人間の生活圏によく馴染んだものだ。塔の壁に扉はひとつ。五つある窓は縦に等間隔に並んでいて、窓枠にはガラスが嵌め込まれて風を通すことはない。しかも五階の窓は嵌め殺しだった。他の四つは両開きなのに、五階の窓だけが開かない。
その五階に、姫君がいる。
くすんで枯れ草のようになった金髪に、白過ぎて青みがかった肌。淡い桃色の寝間着に身を包んでベッドの上にちょこんと座っている。弱っているのは一目で分かり、丁重に扱われているのは人手で分かる。階下のメイドたちは十人ほど。鄙びた塔には見合わない数だ。その見合わない数のメイドが、五階には立ち入らない。
つまり、窓さえなんとかできれば邪魔者はいない。
壊して侵入してしまおうか。
案外バレやしないのではないか。
窓ガラスに身体をべったりと張り付けて叩き割ってしまえば、破片は飛び散らないし音は出ない。これだ。力技で押し切れる。
――――。
いや違う違う。
これだ、じゃない。
危ないところだった。伸ばした身体を慌てて引っ込めた。勇み足でもう窓に触れようとしていた自分に気付いて恐ろしくなる。
確かにそうすれば窓は割れるだろう。少なくともスライムの知る限り、この世界の「窓ガラス状の物体」は前世のそれと変わらない。覗けば反対側が見えて、風が吹くとカタカタと音がして、子供が勢いよくぶつかると壊れる強度で、破片は飛び散るし踏むと怪我をする。
問題はセンサーだ。
この世界には魔法がある。前世でいう警報機のようなものがないとも限らない。少なくとも酒場の入り口の扉鈴を店の奥まで響かせる、という魔法はあった。石塔にも魔力が巡っている。都市のそれは単純に壁を強化するものだったが、同じものかどうかはいまのところ判別できない。時間をかけてやってみてもいいが、それだって安全に「鍵開け」ができるとは限らない。ひとつでも地雷を踏んだら終わりだ。
窓に触れた途端にメイドたちがやってきて御陀仏。最悪の、しかし確かな現実味を帯びた可能性に思い至ってぷるりと身が震えた。ぷるりじゃない。ぶるり。
どうやって接触したものか。
二度身震いして、考えを纏める。
スライムは行動に移った。
まず、窓を離れて屋上に陣取る。
このとき少しだけ身体をちぎって塔から離れた場所に残しておくのが重要だ。スライムは、なんと分裂後でも本体を変えることができる。逃げきれないときはこれを使う。生後三年のときにやって痛い目を見たので最終手段だが。分体を本体に変えると、捨てられたほうは一瞬で朽ちるのである。もう一度本体に戻すということはできない。できなかった。その分の体積はまた集め直しになる。思い出すと気分が落ち込むので、現実に意識を向け直す。
やけにトガリゴケが多い。しかしどれだけ硬く鋭い棘を持っていても、うっすらと金色に光って神聖じみていても、粘性のボディには傷ひとつつけられない。
我が物顔で屋上の中心まで跳ねる。次は下だ。自然と丸い輪郭を選ぼうとする身体を意識して平べったく保ち、数十秒、ついに苔の隙間へと入り込む。雨漏りの要領だ。浸透戦術というやつだ。侵掠すること水の如し、である。スライムは軍略にも詳しい。
屋上から屋根裏のような部屋へ、その屋根裏を抜けて五階の天井へ。
わけもなく辿り着いた。
この塔は上からの攻撃には弱そうだ。暢気なことを考えながら身体を寄せ集めていく。
なんだかぴりぴりする。
やけに多かった金ぴかトガリゴケのせいだ、とは思いもよらない。梅干しのように全身を窄めて、気色の悪い感覚を退治しようと躍起になっている。スライムは完全に、自分のことだけに意識を集中させていた。
だから「それ」に気付いた瞬間、思わず叫びそうになるほど驚いた。
少女の顔が、スライムのほうを向いていた。
「――誰?」
しかも、呼びかけてきた。
実際、備え付けの発声器官があれば叫んでいただろう。
気付かれるとは思っていなかった。いかなスライムといえど貴族の私室に侵入したことはなく、連中が下々の前に出てくる機会なんて限られていて、姿を見たのだって数えるほどだ。だから、ベッドの上で枕を背靠れ代わりにして座っている彼女がどのくらいのどういう誰で、どうしてスライムを見ているのか、まるで分からない。
見て分かることしか分からない。
金髪で、肌は白く、きわめて不健康そうで、薄桃色の寝間着を着て、
瞳の色は見えない。
少女の目は黒い包帯に覆われている。
だから、
目は見えないはず、である。そう考えたからスライムはこんな天井のど真ん中に姿を現したのだ。
なのに、
少女の顔はスライムのほうを向いていた。
やはり目は覆われている。スライムを見るために包帯を外す、ということにさえ思い至る様子はない。誰何の声も「誰?」だった。スライムに対してなら「何?」だと思う。
短い沈黙が続く。
とうとう重力に負けて、少女の肩にかかっていた髪が流れ落ちた。
ああ、耳か。
得心いった。さっきまで俯いていたせいで、髪の中に隠れていたのだ。映画で見たことがある。視覚に頼らなくても音だけで周囲を把握できるらしい。スライムも町暮らしの間は人間の足音をひどく警戒したものだ。
そうと分かればスライムはすぐに「声」を用意した。
スライムの身体は不定形だ。しかしゼリー状のバランスを保つことはできるし、黴のように、あるいは胞子のように姿を変えることもできる。気道と声帯さえ造形ば声を発するのはそう難しくない。問題は声だった。いちから声を作れるということは、声を選べるということでもある。よりどりみどりだ。
どんな風に喋ろうか。
深く考えてはいなかった。
迂闊だった、と言い換えてもいい。どうせ長居する気もなかった。
十年かけて言葉を覚えたはいいが面と向かって話せる相手などおらず、天啓っぽいことをしたり屋根裏の怪異をやるだけでは身にならないと町を出て、風の噂に男心を擽られてやってきただけだ――覚えた言葉がちゃんと通じることを確かめて、ついでに雰囲気を楽しんだらすぐにお暇するつもりだったのだ。だから似合わない喋り方を選んだ。
本当に軽い気持ちで、
「なんだ、随分と弱そうな人間だな」
まさかずっとこの口調でいくことになるなんて、思いもしなかった。
◆◆◆
神様は天井からやってきた。
まさか喋るとは思わなかった。けれど間違いなく声だった。
神様は「王都の魔法省がひっくり返るくらいの最新式」の塔の壁を破壊せずに這い登り、〝聖茨苔〟をものともしないで潜り抜け、ワイバーンですら叩き墜とすという対空砲撃魔法陣は作動すらさせることなく素通りし、天井から侵入を果たした。
そして、女の声で、
完全に不意を打たれた。聞き逃した。ルーシア・レヴァンタルのたった十四年物ののうみそが、不意打ちの衝撃から立ち直るまでに費やしたのはきっかり五秒。
人生で一番長い五秒だった。
十四年と二ヶ月と七日目の今日は、相も変わらず飽き飽きするくらいの晴天だった。
狭い部屋に広い窓。朝日がまだ暖かさを注ぎ終わらない頃に起こされ、見る人もいないのに身嗜みを整えられて、食器を何度も鳴らす羽目になりながら朝食をとり、手を引かれて塔の中を歩き回った。手の温もりと、侍女の語りと、玄関から出て胸いっぱいに吸い込む草の香り。風の感触と太陽のにおい。五階から一階まで、一階から五階まで。塔を一往復だけ歩いて部屋に戻ると、いつも通りの昼食が待っている。
午後からは自由時間だ。といっても、何もないことを自由と呼んでいるだけであるが。この時間にすることといったら精々「読指」を使って本を読み聞く程度で、今月はそれももう終わっている。安全を考えて、この部屋の本棚は非力なルーシアでも持ち上げられるくらいに軽い。運ばれてくる本もそういうものが多く、しかも読み終えてしばらく経つと他の部屋に遣られてしまう。頼めば戻してもらえるが、そのときは他の本との交換になる。午後に頼むのは気が引けた。
人員も、立地も、時間も、すべて都合が悪い。昼食から夕食までのわずかな時間、草原のど真ん中にある辺鄙な塔の、十人に満たない女たちは修羅になる。日没までの時間が貴重なことも、一階から四階が戦場になることも、それでも頼めば手を止めて、女たちが笑って引き受けてくれることも、ルーシアは知っていた。
だからやらない。
さいわい、ルーシアは目が見えない。
埃ひとつ見当たらない室内も、厚い床のせいで静かに思える階下も、変わり映えしない窓からの景色も、ルーシアの退屈には結びつかない。視覚の代わりに発達した他の感覚が、奇しくもルーシアから退屈を遠ざけたのだった。
そうして今日も外の喧騒に耳を傾けていた。草が揺れて、鳥が囀り、森から下りてきた獣が駆ける。草原住まいと森住まいの、熾烈な生存競走が繰り広げられている。
――ああ。
逃げていた馬が、喉元に牙を突き立てられた。こうなったら終わりだ。最後に虎の頭を投げ槍が砕いて、茂みの中から侍女が出てくる。今日も塔の外は平和そのもの――
あれ、と思ったのはそのときだった。
今日は塔がいつもと違う。
ひとつ取っ掛かりがあると掴むのは簡単なもので、すぐに正体は分かった。
窓の外だ。誰かがルーシアを見ていた。
視線が緊々と肌を噛んだ。穴が開くかと思うほどだった。瞬きもせず、食い破らんばかりに凝視していた。
窓を叩き割って入ってくるつもりかもしれない。風の音が少しずつ形を変えている。姿勢を変えているのだと思う。けれど視線は吸い付いたまま離れない。やがて、ガラスの向こうの「誰か」はルーシアを見定めて、
登った。
そして天井からやってきた。
間違いない。神様だった。
五秒経った頭で、慎重に考える。
魔物は〝聖茨苔〟を嫌う。
屋上に聖別された水は流れていないが、二ヶ月前に植え替えたばかりの、等級は王城級、炎の魔法はもちろんのこと、魔界の瘴気さえ寄せ付けない最高品質の苔だと聞いている。魔の天敵が満遍ぎっしりと張り巡らされた屋上を苦もなく通り抜けられるのは、神聖の、あるいは神性の証に違いない。
しかも喋った。
父様が言っていた。神様も天使様も夢枕には立つけれど、天使様は未来のイメージを見せるだけだ。声は出さない。神官は神様の声を聞く。神様には声がある。
消去法で、神様だった。
そして、
戦いはワンサイドゲームに終わった。
神様の名前はアイリス・リインフォース・プロメテウス・エッジワース。
最近封印を内側から砕いて復活した彼女は、六千年前の戦乱を生きた大魔道士だった。生命の研究に手を付けたのが遅かったため一度目の生は百と老いずに終えてしまったものの、秘術により己を「魂の器」に変じて永らえたのだ。
魂の器、というのは「俺様に言わせれば」スライムという魔物に似ている。特徴を聞くと綺麗なウーズ、という印象だった。おいしそうに見えるので女子供に食べられやしないかと恐れていた。ウーズは気道を塞いで人を殺すから口に含むなんてありえないのに、不思議な心配の仕方をするんだねと言ったら、少し考えて「牛肉の匂いがしてジュウジュウと音を立てていたら、そうと気付かずに食べるかもな」、そうかもしれない。嫌なウーズだ。それでも、おいしそうなウーズという言葉がかすかに輪郭を帯びた気がした。
が、それよりも。
アイリス・エッジワースは女の子だったはずだ。
そう言った。そう聞いた。
だったら自分のことを「俺様」と呼ぶのは変だ、と迫ると「俺様の時代は俺様しか俺様を使ってねえ」、分かりにくい説明をされた。どうやら、他の男女が「わたし」とか「せつ」とか言う中で、アイリスだけが自分自身を「俺様」と称していたようである。それを強い魔道士に憧れた男子が真似て、結果、男の一人称として広まった。というのがアイリスの見解である。
魔道というのも六千年前は悪いイメージではなかったらしい。
単に魔術、魔法、魔道と序列があって、アイリスは一番上の『魔道』を使えた。だから魔道士。大魔道士は勝手に名乗っているだけ。
現代で魔法という言葉ばかりが使われて、魔術が同義語のひとつくらいの立ち位置に収まって、「魔道に堕ちる」なんて言い回しが生まれたのは、魔法に差がなくなったからだと言っていた。平和になると強い力は忌避されるらしい。ちょっと話しぶりが傲慢に感じた。
ルーシアだって知っている。そりゃあ平和じゃなかった時代に比べれば安心して暮らせるかもしれないけれど、どこもかしこもそうとはいかない。戦争だってあるし、魔物と生存圏を奪い合うことも決して平和な営みとは言えない。いっそ魔道でちょちょいと平和を生み出してみるのはどうだろう。レヴァンタル辺境伯領の東にはとんでもない数の魔物が棲んでいる森があって、そこをどうにかすれば多くの命が救われる。それなら忌まわしいとも思われなくなるんじゃないか。
でもアイリスも現状は魂の器だから、現代レベルの魔法くらいしか使えないらしい。
残念だ。
ルーシアはしょんぼりした。
アイリスは話すのを渋りに渋って、それでもルーシアの圧勝だった。
三時間にわたる攻め手が絶えたのは質問がなくなったからではなく、夕食の時間が近付いたからに過ぎない。ノックの音を聞いたアイリスは、亀の首のように天井裏へ引っ込んでいった。ルーシアとっては寂しい別れだった。でもまたすぐに会えるはずだ。
むふん、と満足げに鼻を鳴らして、ルーシアはベッドから下りる。
やっぱり神様に違いない。だって六千年前だ。
神話の時代が三千年より向こうのこと、神譜教会の聖典の、もっとも旧い鍛冶神ラダナで五千年である。それを飛び越えて六千年前。とんでもない大物だった。その大物が、直に会いにきて声を掛けた。
これは将来は神官様だ。聖女様だ。呪いも治るし目も良くなって、お日様の下を歩けるようになる。そうしたら「クズモチ」を探すのだ。その先に続く未来はきっと、物語のような人生に違いない。
絶対に、神様だ。
もちろん全部伝えた。
塔に暮らす侍女が女中が揃いに揃った食卓でぺらぺらと話してしまった。自慢話でもするかのように、いや間違いなく自慢話だった、ルーシアはひとつ残さず細大漏らさず語ってみせた。
侍女長は一言、
「天井裏の警備を厳重にいたしましょう」
次の日からアイリスは「こなくなっちゃった」ことになった。
本気で隠れれば、アイリスは誰にも見つからない。
防壁を構築する魔法陣は、表面を削っただけでは機能不全に陥らないように、塔の石壁と石床の中に刻まれている。アイリスはそこに潜んでいる。塔の機能が正常に動いている限りはわざわざ探そうと思わないところだし、見つかったところで防衛機能を長く停止させる度胸がなければ追い詰められない。
明らかに疑われてはいた。
ルーシアに誘導尋問を仕掛けたり、居室に張り込んでみたり、しまいには不意打ちで乗り込んできたり。しかしいずれも決定的な証拠は掴ませず、だからふたりが密会を重ねるペースは変わらなかった。
アイリスが語って聞かせ、ルーシアが思いを馳せる。
塔の少女は、外の世界を夢見て日々を過ごした。
――きっと、いつか――
夢を見ていられた。
楽しい、楽しい時間だった。
現実なんて忘れてしまえそうな。
けれど世界は、ルーシアのことを忘れてなんかいなかった。
出逢ってから三度目の雨の日に、ルーシア・レヴァンタルは血を吐いて死んだ。
ふたりの出逢いとは似ても似つかない、土砂降りの大雨の日のことだった。




