プロローグ
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男は、扉が開く音で目を覚ました。
たしか遅刻はいなかったはずだ。ということは本館から遣いでも来たか。あるいは東側と間違えた酔っぱらいか。
頭を左右に振って靄を払い、渇いた喉に唾を飲み込んで、前に出ていた尻を椅子の深いところに据える。「あー」と「えー」の中間くらいの、寝起きだとまる分かりの嗄れ声を出しながら、机に肘をついて前のめりに客の顔を見た。
まだ焦点が合わない。
けれど、平和な考えは一発で吹き飛んだ。
血の臭いがした。
ギルドの西側業務といえば、汚い仕事の代名詞だ。
とにかくクサイ。一日中臭い。おまけに全身が汚れるし、体力も必要だし、帰りも休みも不安定ときている。病気・毒あり、怪我多し、給料悪し、女っ気なし。そもそも血や死体への嫌悪感を麻痺させられなければ長くは勤められない。これはもう「そういうものだ」としか言えなかった。締めも、捌きも、検めも、西側業務というやつは究極的には血肉といちゃつくお仕事である。おまけにそのあたりは獣や魔物相手だからまだましときた。とびきりのハードルは「ここらで一番安い解呪」というやつに決まっている。もう本当に、何度やっても「どうして冒険者ってのはバカしかいないんだ」と叫びたくなる、血腥い仕事だ。
男は、そんなクソみたいな西側業務を十三歳の誕生日から二十年、病と毒以外では一度も休まずに勤めている中堅だった。
だから、もちろん朝っぱらから二ヶ月ぶりの剣牙熊の頭を見ても動揺はしなかった。感想もせいぜい「いつもよりでけえな」ぐらいのもので、開けられる箇所に穴を開け、鉄紐を通してタグを引っ掛けて、今日の面子を思い浮かべて、うんと唸って仕事を振るところまで普段通りだった。
が。
「――本当に嬢ちゃんが、あいつをひとりで仕留めたのか?」
訊かずにはいられなかった。
受付台の向こうに立っていたのが、どう見ても十代になりたての、掴めば折れそうな身体をした少女だったから。
太陽のような金髪をして、空のような青い瞳をして、いい家の女の子が人生の節目にしか着ないような服をなぜか着ている以外はごく普通の、可愛らしい少女にしか見えなかったから。
まだ長い煙草を思わず灰皿で潰して、男は浮かんだ疑問を口にしていた。
実は、少女だと思った瞬間に、一度だけ手配書掲示板を盗み見ている。
ひとつしかない出入り口のすぐ隣、ただ入ってきただけでは確かめようがない位置に、けれど受付に座れば一発で確認できる位置に、お上からの指名手配を全部張り出しておく掲示板がある。だいたい人の顔と同じくらいの高さに合わせてあり、フリルみたいな紙の束が壁から生えているように見える。そしてそこに、今朝張り出されたばかりの手配書が一枚。真新しい紙に人相と特徴。長々と書いてあるが、ようするに、「金目に銀髪で、女にしては背が高い」という情報が分かれば良かった。
別人だ。
金髪で碧眼で年齢二桁もちょっと怪しいくらいの少女が、銀髪で金眼で成人女性の範疇でも背が高い女と同じなわけがなかった。別人であるなら犯罪者でもなんでもない。ちょっと熊を狩ってきただけの冒険者である。
ただ、一度疑ってしまったせいで箍が緩んでいたのかもしれない。
馬鹿みたいな質問をしてしまった。
――冒険者相手に、詮索はご法度だ――
そう自分で気付くより早く、
少女は一瞬だけばかみたいな表情でぽかんとした後、おつかいを褒められた子供のようにくしゃりと笑って、
「うん! 私がやっつけたの!」
小さな背中を見送ってから、新品の煙草に火を点ける。
少女は、銀貨を見て目を輝かせていた。
剣牙熊を、一人で、無傷で、あんな服装で、平然と狩ってこられる人間が銀貨を見て嬉しそうにしていた。
3銀貨・20銅貨。あの少女が持ち込んだ剣牙熊の頭の価格だ。
牙くらいしか使える部位がないから頭だけで満額出る、と言えばその通り。毎日毎日、熊だけを狩っているわけではないだろう。とはいえ少なく見積もっても銀貨一枚。日割りでそれくらいはあの少女も稼げているはずだ。
でも、嬉しそうにしていた。
煙草を咥えて、一息に吸う。こういうときは半分くらいいったほうがいい。長年の経験だ。肺の中が煙で満ちる。初めてこれをやって噎せたのは、どれくらい前だったか。
ふう――――
いつもより多い紫煙が、誰もいない受付の向こう側へ散っていく。
忘れよう。
余計な不安は煙と一緒に吐き出す。これに限る。
奇妙な少女のことなど忘れて、男は自分の仕事に戻ることにした。
◆◆◆
昼間だというのに薄暗いのは、窓がないせいだ。
ギルドの東側地下には酒場が設けられていて、ならず者どもの喧騒だけを切り取ったその狭苦しい世界を、計六箇所、壁の高いところに吊り下げられた橙色の灯りが、昼とも夜とも言えないくらいの曖昧な光量で照らしている。もちろん客にも昼夜の別はない。朝は呑んで騒いで暴れ、昼は呑んで騒いで暴れ、夜は呑んで騒いで暴れ、朝だか夜だか分からないくらいの時間になっても誰かが呑んで騒いで暴れている。
なにせ冒険者向けの店だ。
ギルド西側の汚いカウンターを出て、少しくらい浮かれてもいいかと思えるだけのカネを手にした彼らが最初に辿り着く場所だ。静かに過ごせるわけがない。
ルーシアが足を踏み入れたときもそうだった。
喧騒に、およそ切れ目というものがない。
誰かの武勇伝、鎧の擦れる音、遊札卓の馬鹿笑い、食器が重なり、尻に伸びた手を給仕が叩き、木製のジョッキを頑丈さに任せてぶつけ合う。乾杯。
不意に、テーブルをどんと叩く音がした。全員の注意がそちらに向いた。「てめえ」と聞こえる。なにやら揉めているらしい。
タイミングが良かった。誰もルーシアに気付いていない。壁をなぞるように歩き、入り口に一番近い角にある灯りの下に陣取る。テーブル上のパンくずを払おうか迷って、結局そのままにしておく。もちろんメニューなんて小洒落たものはない。食事は「何人前」、飲み物は水かエール、不満のある奴はとっとと卒業しろというのがギルド酒場のお決まりだ。
だから頭を悩ませる必要もなく、ルーシアは食事と水を頼もうとして、
「ちょっと。お嬢ちゃんの来るようなところじゃないよ、ここは」
どん、と目の前にジョッキが置かれた。
中身は水だった。注文通り……というわけではないらしい。腕を辿った視線の先に、気の強そうな女が立っている。
「連中、周りの人間なんて気にしちゃいないからね。あんたも聞こえただろ? 食器だの椅子だのが飛び交うようになるまでそうかからないよ。悪いことは言わない、この水を飲んだら出ておいき」
呆気にとられたのは一瞬だけだった。
ルーシアはすぐに気を取り直し、懐から半銀貨をテーブルに置く。
「あら。おかしなことを言うのね。ギルドの酒場は客を選ばない――そうでしょう?」
「……あんた、これ、」
「うふふ。素材通りの値段だったわ。ここのピース・メイカーさんはいい仕事ね」
給仕の女が押し黙る。
「じゃあ、一人前と水でお願いね」
女の顔に動揺が浮かぶ。視線の先に、さっき置かれたばかりの水があった。
「……ああ、水はいいから。食事はもちろん大人の量よ」
こくこくと頷いてテーブルから離れる給仕の女を見送り、ルーシアは椅子に深く座り直す。
足が浮いた。
そしてとうとう堪え切れなくなって、どうにか保っていた表情を綻ばせた。
どやっ。
完全に「冒険者」だった。大好きな『放浪騎士シリーズ』の、冒頭のいつものやりとりだ。残念ながら「こいつは俺の連れだ」「それであんた、どうしてこんなところに?」とは言えなかったが。どちらかというと言われる側の見た目をしている。そんなことはルーシアも分かっていて、
(ね、ね、ね、アイ様! 見てた? ギュス様みたいだったでしょ!?)
ギュス様、というのは『放浪騎士シリーズ』の主人公のことである。
どや顔を浮かべたまま、ルーシアが思考する――考える、よりも念じるというほうが近い。頭の中の友人に思念を送って語りかけている。
(……いや、危ないって言われたなら出直せよ。知らねえぞ、面倒事に巻き込まれても。俺様は助けねえからな)
その頭の中の友人から、呆れたような声が返ってきた。
名をアイリスという。
ルーシアだけなら仮に銀貨を握っても「この銀ぴかでどうやって生活するの?」というレベルのところに、知識と知恵を与えたのはこの同居人である。看板すら読めない少女に町の案内をしたのもそうだ。そもそも、剣牙熊を難なく倒せたことからしてアイリスのおかげだった。
なるほど、確かにこの友人がいなければルーシアはここにいなかった。それは間違いない。
ただちょっと心配性が過ぎるとも思う。わざわざ隅っこに座った意味を考えてもみてほしい。世間知らずは百も承知だが、ルーシアだって理由もなく動いているわけではない。
それに。
熊は確かに恐ろしかった。でも案外躱せたのだ。人間相手でもいい線いくんじゃないかと思う。
思っているうちに料理が届く。
「お待たせ。今日の一人前だよ」
危うく「え、もう?」と言いかけたのを飲み込んで、
「……こほん。早かったわね。ありがとう」
「あはは、それがウチの取り柄だからねえ。おつりはここに置いとくよ。確かに届けたからね」
ひらひらと手を振って、給仕が去っていく。おつりは思ったよりも多かった。これなら銅貨で支払ったほうがよかったかもしれない。
じゃらじゃらと音を立てながら、おつりを懐にしまい込んで昼食に向き直った。肉と野菜を黒パンで挟んだサンドイッチがふたつ、木皿の上に乗っている。
いただきます。
呟いた言葉は周囲の喧騒に呑まれて消える。それがまた塔住まいの頃とは違う感覚で、ルーシアはわくわくと皿の上に手を伸ばした。
がぶ。
もぐもぐ。
もぐもぐ。
もぐもぐ、もぐ。
もぐ、もぐ、もぐ。
……もぐ、もぐ、もぐ、もぐ。
………………もぐ。
まだごくんまでいかない。それどころかサンドイッチが口から離れない。
平たく言うと、かたい。全然ちぎれる気配がない。
ルーシアは唇でサンドイッチを支えて、
(アイ様、これ本当にパン?)
アイリスは笑い交じりに、
(ああそうさ。パンと、野菜と、それからお前の大好きな肉だぜ。素材も調理も塔のとは段違いだがな)
たちまちルーシアの表情が崩れる。もう泣きそうだ。
どうしよう、
噛み切れる気がしない。まだまだ序盤なのに、口の中にあるサンドイッチは全体のほんの一部分なのに、もう頭が痛くなってきている。噛んでいるだけでこれだ。
頑固なパンを睨みつけてみる。近過ぎて、たぶんうまく睨めていない。視界がぼやける。変な顔になっていそうなのでやめた。
どうしよう、
勝てない。このままでは食べきれない。
そう考えると途端に怖くなった。
ここで自分は死ぬのだろうか。サンドイッチを噛み切れず、酒場から出られず、冒険にも行けないまま死ぬのだろうか。悲しい想像が鼻の奥で熱く膨らみ、視界が滲む。
ずび、と鼻をすすり、
(――なぁにをやってんだか)
いきなり手が動いて、サンドイッチを捻じ切った。
もちろんルーシアの両手だ。
けれどルーシアの意思ではない。となればアイリスしかいない。
ひょいひょいひょい、と手がパンをちぎる。ついでに野菜もちぎる。肉はちぎるほどのサイズがない。代わりに最初から細切れで、アイリスはそれを器用に分割し、ぶつ切りのパンの中に収めていく。ひとつふたつみっつ。サンドイッチはあっという間に八つ裂きになった。
ルーシアだったら絶対にできない。野菜だけ挟んだパンと、野菜と多めの肉を挟んだパンと、木皿に落ちた哀れな肉と野菜に分かれると思う。
(おら。パンはこうやって食うんだよ。塔と同じだ。まぁこっちは作法が理由じゃねえが)
ぼんやりと、思う。アイリスが直接こうして手を出すのは稀な気がする。いつもなら、ぎりぎりまで言葉で伝えようとするのに。
珍しい事態に固まっていると、
「――いい加減にしろよ、クソ女ぁっ!!」
不意に、テーブルをどんと叩く音がした。
様子は知れない。
野次馬は、いまの怒声が聞こえる前からだ。昼間っから呑んで騒いで暴れていた冒険者たちが二重三重に輪をなして人垣を作っている。誰も彼もルーシアより身長が高いし、まず人数が多い。おかげで詳しい事情はさっぱり分からない。
けれど、ルーシアだって「くそあま」という言葉が「うんちおんな」の汚い表現だということくらいは知っている。もちろん本当に排泄物を意味するのではなく、せいぜい「とてもむかつく女性」程度の使われ方に過ぎないことも。
つまり、女性が悪漢に絡まれている――
冒険の予感だ。
ルーシアは、八つ裂きになったサンドイッチをむんずと掴んで立ち上がった。
(おいちょっと待て! どう考えても面倒事じゃねえか! わざわざ首を――)
頭の中でアイリスが喧騒い。
どうせ止められはしないのに。
アイリスは「こういう風に」と手本を見せるときにしか身体を操ることはない。剣牙熊に立ち向かったときでさえ、アイリスはルーシアを強くしてくれたけれど、実際に戦ったのはルーシアだった。この十数日でアイリスの方針はよく分かっている。自分は剣盾と知恵袋に徹するつもりなのだ。時折こうして侍女長みたいな振る舞いをするあたり、教育役も務める気でいるのかもしれないが。
いずれにせよ、廊下を通せんぼして「なりません」と言えない以上、ルーシアを止めることはできない。
言葉の裏付けにはブリョクが必要なのだった。
そしてそれは、ここでも同じだ。武器も持たない非力な女性では冒険者崩れの悪漢に対して抵抗らしい抵抗もできまい。抵抗できなければどうなるのか、というと読んだことがないので分からないが、とにかくひどいことになるのは間違いない。絶対にそうだ。
ルーシアはすっかり想像をたくましくして、ふんふんと鼻を鳴らして、騒ぎの中心に向かってずかずかと歩いていく。
まだ様子は知れない。ルーシアの背が低過ぎて、ジャンプしないと向こうが見えない。しかし本当にジャンプするわけにもいかない。「敵」にこちらを気取られたら、人質を取られるかもしれない。ギュス様はそれで毒を受けていた。同じ轍を踏むようでは駄目だ。
空いている椅子に足をかけた。もちろんすぐそばにテーブルがある。四本脚だ。安心して端に立つ。
これで見える、
――ぎらり、
人垣の向こうで何かが光った。
頭のてっぺんより高い、誰かが振り上げている、悲鳴、
ナイフだ
と思うより早く、
「見過ごせないわね」
ルーシアは噛んだ。
同時に、振り下ろされたナイフを掴んだ。
気付いたときには人垣を跳び越えていた。遅れてテーブルが倒れる音がする。料理は乗っていなかった――はずだ。後ろに人もいなかったと思う、
「なんだてめえ?」
心配は、野太い声に遮られた。
ついさっき「くそあま」と怒鳴っていたのと同じ声だ。ナイフを振り下ろしたのと同じ男だ。
素肌の上に革製のベストを着て、腕には袖の代わりに隆々とした筋肉を纏っている。顔つきはまったく凶相で、てっぺんには鶏冠のような髪型を乗せて、そして人垣の連中より頭ひとつ分でかい上背から、覗き込むようにルーシアを睨んでいた。
机の上にルーシア。後ろの椅子には修道服の「くそあま」がきっぱりと目を瞑じている。人垣は見ているだけだ。
他に誰もいない。
ルーシアがやるしかない。
「通りすがりの冒険者よ」
「――ハッ! つまりは自分からやられにきたってわけだ。関係もねえのにご苦労なこった。安心しな、そこの修道女と一緒に可愛がってやるよ」
人垣がわっと沸く。
ひとり残らず口々に「兄貴」「さすが」「惚れる」などと騒いでいる。野次馬改め、取り巻きだった。
その中の一人が、こちらに向かって手を伸ばす。興奮のせいか瞳孔は開ききっていて、薄ら笑いを浮かべて、人垣から一歩進み出たかと思うと、抵抗なんて一念も考えていない様子でルーシアの腕を取ろうとして、
「――ぶげっ!?」
壁に叩き付けてやった。
しんと静まる。
気絶した男が壁からずり落ちる。
「くそあま」のシスターは、やっぱり目を瞑じたままだった。
そして鶏冠髪の――アイリスに言わせれば「モヒカン」の――悪漢が表情を歪めて何かを言うより早く、
「あんたたち! 喧嘩なら外でやってくんな! ここは飲み食いする場所だよ!」
さっきの給仕だ。
振り向いた取り巻きの隙間から、ちらりと姿が見えた。一瞬だけ目が合った。憂うような視線だった。問題ない、と示す隙すらなく、その姿は人垣の向こうに隠されてしまった。
「ふん。姐さんに言われちゃしょうがねぇ。続きは外だ。いいな?」
訊かれた。
が、選択肢など最初からない。
酒場で暴れたらアウトだ。
特に制止されたら後は、その後は拳ひとつ振るうだけで御法度。促されて表へ出なければそれも駄目。それくらいルーシアだって知っている。ギュス様も、だから酒場では決して抜かなかった。
うなずく。
それだけで、男たちはもう「勝った」とでも言いたげに視線を交わした。まず取り巻きたち、次にモヒカン男が酒場を出る。後ろにルーシア、シスターが続く。
そして、あっという間に決闘場ができた。
壁材は人間だ。冒険者ギルドの目の前に、どこから湧いたのか分からない見物人が勝手に集まってきて、勝手に輪になって、勝手に盛り上がっている、
「ドルガノ! 銅四!」「ちびが勝ったら祝杯だ!!」「じゃあ俺はドルガノに酒ひとつ!」「両方に銅七枚だ!! がはは!」「おい修道女には賭けらんねえのか!?」「はやく始めろー!」
しかも勝手に賭けられている。
こっちはそれどころではないのに。
ルーシアの後ろに、観衆から少し離れてシスターがいる。正面には10メイルの距離をおいて、モヒカン男のドルガノ。
決闘の中心は、ルーシアとドルガノだ。
冒険者ギルドの面する通りは壁外町で一番広い。
が、これはもちろん大型の魔物をまるまま持って帰ってこられるようにするためで、決闘を観衆で囲むのに丁度良いサイズを意図したものではない。断じて違う。こんな使い方は間違っている。そんな御託には意味がない。
ドルガノが顎で取り巻きを呼んだ。
長髪を馬の尾のように結った男が、二人の間に進み出る。
「そいつの投げる硬貨が落ちたら『はじめ』だ。いいな?」
うなずく。
ホーステールの男が銅貨を取り出す。観衆にもよく見えるように掲げている。
ドルガノは左手にナイフ。ルーシアは無手。男は右手にコインを握り込む。示し合わせたように、全員の動きがぴたりと止まる。空気がぴんと張り詰めていく。
糸の震えが収まるように、静寂が満ちる。
風が吹いた。
髪がぺたりと頬に張り付いてはじめて、ルーシアは汗をかいていることに気付く、拭う暇もない、誰かがごくりと唾を呑む、次の瞬間、
きぃんっ、と音を立ててコインが飛んだ。
ホーステールの男が背を向ける。一目散に離れていく。馬の尾が流れる。銅が回る。
そしてコインが落ち始めて――
「――召喚!!」
ドルガノが右手を振るった。
青白い光が走った。
稲妻のような魔力光が地面に落ちて円を描き、魔法の術陣だ、と気付く頃にはもう完成している。
影は五つ。暗闇を塗り固めた輪郭が、卵の殻のように罅割れて剥がれる。爪牙が覗く。銀の刃を思わせる灰毛に、四つの足がついている。
灰狼だ。
タイミングはぴったりだった。
コインが落ちる。術陣が消える。獣が屈む。
五対の瞳がルーシアを捉えた。
「行けッ! そのガキをぶち殺せ!!」
ドルガノが吼え、灰狼が駆ける。観衆が息を呑む。ルーシアは動かない。
否、
(――馬鹿野郎!! 何をぼけっと突っ立ってんだ!)
動けなかった。
剣牙熊のときと同じだ。
目が合うまでは結構いける気がしていた。それが狼に見据えられた途端、足が竦んで一歩も動けなくなった。
情けない、と思う暇もなかった。
狼はもう眼前に迫っていた。切り込みの一頭が腰に飛びつく。なすすべもなく体当たりを受けた相手の喉に、右腕に、左手首に、続く狼たちが牙を突き立てる。
地面に倒れた。
急所に噛み付いた三頭が脚を使ってルーシアを押さえつける。少女の非力な腕では、どうやっても振り払えない体勢だ。しかも、体当たりをした一頭とルーシアへの初撃に加わらなかった一番大きな個体は、ぐるりと周りを回っている。抵抗を確実に潰す算段まで、よく躾けられていた。
抵抗もできない柔肌に、牙が食い込む。
深く。
牙が食い込んでいく。
深く、深く、
――食い込んでいるだけだ。
が、観衆もドルガノも気付いていない。
狼だけが、
想像よりずっと一方的な展開に観衆は取り乱しているし、ドルガノなどはもう構えを解いている。「やりすぎじゃねえのか」「見損なったぞ」「ああ、勿体ない……」「こんなの決闘じゃねえよ」――ひと睨み。
白熱し始めていた野次馬は、ドルガノに睨まれてひとたまりもなく静まり返った。木々のように棒立ちのまま、風に揺れる枝葉のように中身のない言葉を垂れ流して、いかにも心配そうに決闘の行方を見守っている。
それでも狼は牙を立てた。ルーシアの頭上と足下から「ぐるる」と唸り声がした。灰狼たちだけが戦いの中にいた。
――涎まみれだ。
あの固くて黒いサンドイッチの気分だった。仰向けになったルーシアの目には、その瞳と同じ青い世界が映っている。その世界には白い斑が浮いている。塔で見た空は、あんなにも高かっただろうか。
思う。
いつか、御伽話のようにあの雲の上を歩いてみたい。白くてふわふわだ。きっと世界で一番美味しいサンドイッチが作れる。そうに違いなかった。雨雲はどうしようか。やつらは結構、灰色だ。どんよりしているし、湿気っていそうだし、あんまり美味しそうに見えないし、もしかしたら臭いかもしれない。剣牙熊みたいなニオイがする。獣のニオイだ。ちょうどこの灰狼たちのような
「あっ」
(おい、いつまで呆けて――なんだ今の「あっ」は)
決闘のことを忘れていた。
まさか自分が吹っ掛けた喧嘩の最中、雲を食べる方策を練っているとは思わないだろう。アイリスの声はひどく訝しげなものだった。
おまけに周りの状況はもっとまずい。
決闘の雰囲気など完全に失われている。
いま観衆がルーシアのもとへ駆け寄ってこないのは、ドルガノが睨みつけたからだ。無理もない、いきなり為す術もなく押し倒されて、急所に牙を突き立てられて、ぴくりとも動かなくなったのである。本人はただぱかーんと口を開けているだけでも、傍目にはわけもわからず死んだように見えるだろう。
その証拠に、誰も彼もが悲痛な面持ちでルーシアを見つめている。
誰かが一歩踏み出せば、この決闘場は崩れる。
無関係の人間が射程に入る。
教わった魔法はひとつだけ。
まだ、精密な操作はできない。槍があれば狼を貫けるというくらいまで近付かれたら、一人二人ならなんとかなる、観衆が雪崩れ込むような事態になったら終わりだ。
アイリスもそのことは知っている。
だから咎められる暇もなく、
(……まあいい。やり方は覚えてるな?)
ルーシアは自信たっぷりに、
(それは大丈夫)
組み敷くように灰狼がいる。三頭と二頭。ドルガノは充分離れている。シスターと観衆はもっと遠い。安全だ。
もちろんルーシアの目からは見えない。見えるはずもない。喉に噛み付かれて、首を動かすことすら儘ならぬ身である。瞳に映るのは、狼の顔の上半分の左半分だけ。
それでもルーシアには視えている。
本人は『魔眼』と呼んでいた。
アイリスの知覚だ。なるほど、肌や舌とは違って触れずとも感じ取れて、耳や鼻とは違って正確に位置が分かる。目と呼ぶのは間違っていないと思う。
この目があれば、誰も巻き込まずに魔法を使える。
朗々と、
「アルマ・アリスの鉄の羽根」
呪文を唱え上げる。
どよめきが起こった。観衆の中から「誰だ」と声が上がる。きょろきょろと落ち着きなく周りを窺う者もいる。当事者二人には魔法を使う理由がない。あるいは魔法を使える理由がない。ならば、決闘に誰かが割り込もうとしている――そう考えているのだ。きっと。
「小波 嘴 水晶の梁 七つの風に帆を立てる」
ドルガノはナイフを握り直して周囲に視線を巡らせ、シスターはやはり目を瞑じたまま怯えるように後退し、観衆はただ騒然としている。喉笛に牙を突き立てた灰狼が、びくりと身体を震わせた。それでも離さなかった。肌で感じる。牙に、より強く力が籠められている。
しかしルーシアは止まらない。
少し気道を圧迫されただけだ。この程度では詠唱を阻めない。
すべて視える。魔眼の掌上にある。
方向を定め、狼だけを狙う。魔法が完成する。
そして、
「天遷魔術 三式六号――斬空閃」
狼が吹き飛んだ。
ルーシアに襲い掛かっていた三頭は上空へ撥ね上がり、後詰めの二頭は決闘場の外周まで転がり、最前列の観衆が血を浴びる。一瞬の間をおいて、上空から三頭の死体がドルガノの足元に落ちた。死体が五つ。どれもこれも真っ二つ。灰色の毛並みは赤く染まっている。
ルーシアは、むくりと起き上がった。
絶句していた視線が一斉に集まる。ルーシアが立ち上がる動きに合わせて人垣が揺れる。一歩踏み出す。観衆が一歩下がる。決闘場が広くなる。
踏み止まったのはドルガノだけだった。
「く……くそが、」
みしりと聞こえた。音がするくらい強く、ドルガノはナイフを握りしめている。歯と脚と眼光にも力が篭もっている。
次の瞬間、
「死ねやぁっ!」
銀刃が閃く
――よりも早く、
「斬空閃」
ナイフが根元から折れる。
もちろんルーシアが切って落としたのだ。そうと知らせるために、わざわざ魔法名を呼んだ。
敵を見る。
目が合う。
黒い瞳が魔法使いを見ている。
うまくいった。多連魔法もあと二回ある。
が、代わりに、標的にできるものはもう残っていない。
時間をかければ、殺すことになる。
最悪の想定だ。それは避けたい。
さらに一歩。
覚悟を決めて進む。
「彼女に謝りなさい。そうしたら、許してあげる」
シスターを指差す。指された当人はびくりと肩を震わせているが、構っている暇はない。ルーシアはぐるりと観衆を見渡したあと、再びドルガノに視線を向けた。
「あなたひとりでいいわ。それでさっきの取り巻きさんたちも見逃してあげる。でないと――」
魔法が地面を抉る。
景気良く土が弾け飛んだ。ひとつひとつが狼の胴体を完全に両断するほどの斬撃だ。それが八つ、一箇所に重ねて放たれた。観衆が咄嗟に顔を覆っている。
風圧で前髪が跳ね上がった。想像よりずっと威力が大きい。さいわい怪我人はいないようだ、という思考をおくびにも出さず、「次は当てる」と言おうとして、
ルーシアは思わず固まった。
ドルガノの瞳はルーシアを見ていなかった。
どころか、きっと何も見えていない。ぐらぐらとドルガノの身体が揺れる。びゅうっ、と風が吹く。白目を剥いた。泡を吹いた。尻もちをついた。とうとう、その場に崩れ落ちた。
ぽかん、とその様子を見つめる。黒い瞳は戻ってこない。
ドルガノは完全に気を失っていた。
……この余った一回はどうしよう。
ルーシアが多連魔法の心配をしている間に、観衆の中から取り巻きが飛び出してきてドルガノを抱き起こした。そして入れ替わるように、ホーステールの男が膝立ちの姿勢で進み出た。ルーシアとシスターを交互に見やり、地面に額を擦り付ける。
「すみません! 魔法使い様とは知らず! そちらの方にもご迷惑をおかけしました! ご覧の通りドルガノの兄貴は気絶しております! なので俺の頭で、どうか、どうか……!」
ドルガノが目を覚ますまで待っていられない。
待ってはくれない。
そう思っているのだろう。
ルーシアもそうだ。時間は待ってくれない。
なにより、
土下座だ。
初めて見た。物語を読んで想像していたより、背中がよく見える。ここからさらに追い詰めるのは違う気がする。
ちら。
シスターを見る。こくこくと頷いている。頑なに目を開けないのは気になるが、どうやらあちらも文句はないらしい。ならばよし。
ルーシアは尊大な魔法使いの顔で、
「いいわ。でも二度と私の前に現れないこと」
「も、もちろんです! 仲間たちにも徹底させます!」
「じゃあ、さっさと行きなさい」
埃を払うように手を振る。
男は土下座したまま後退した。頭は上げず、顔だけを横に向けて器用に指示を出し、ドルガノと仲間たちを連れて人垣の向こうに消えた。道を開けるために割れた人垣が再び閉じるまで、男は頭を下げたままだった。
やがて足音と男たちの声が聞こえなくなり、
「「「うおおおおおおおお!!!!!」」」
突然、周囲から巻き起こった歓声に、ルーシアは全身を強張らせた。
「死んじまったかと思ったぜ!」「俺の金がー!!」「こりゃ祝杯だな!」「本当に勝つなんてなぁ!」「十倍ぃぃぃっ! 十倍だぁーっ!!」「すげえ」「てか、噛まれてたよな!?」「酒はどこだー!」
大地が揺れている。靴底から震動が伝う。歓声が、殴りつけるように耳朶を打つ。ぐらぐらとルーシアが揺れる。そこへシスターが駆け寄ってきて、
「魔法使い様……ありがとうございました。迷える者へと手を差し伸べるあなたに、神のご加護が――」
そこから先は覚えていない。
最後の記憶は、魔力と一緒に色彩まで抜け落ちた斜めの世界。ぐらりと傾いたのは己の視界のほうだということにさえ気付かないまま、
シスターの言葉を聞き遂げる前に、ルーシアは意識を失った。




