裏の家、の裏の家
前作、裏の家 の女性作家視点です。
※二話共読むと、人によっては精神的百合の両片想い物に見えるかもしれないです。
あの少女が、彼女の一家が引っ越してから一体どのくらいの時が経ったのだろう。
目を瞑れば脳裏に浮かぶのは可愛らしい彼女の姿。
私はきっとそれを想い浮かべて幸せに死んでいくのだろう。
ああ、一目で良い、会いたいな。
ある日私はスランプに悩まされながらパソコンに向かっていた。
一文字書いては消し、一行書いては消しを繰り返しどツボに嵌まっていた。
曲がりなりにも文字を書いて生活出来るようになり三年が経った。
学生時代にデビューを果たし、処女作が爆発的に売れ映画化までされたはいいがそれ以降鳴かず飛ばずで今に至る。
それでも何とか生活できる程度には収入を得ているので完全に一発屋という訳ではない。
どちらにしても中途半端な存在。それが作家としての私の立ち位置だった。
ふと目を庭の方に向ければいつの間に入ったのかランドセルを背負った少女が踞っているのが見えた。
何故ここに、小学生がこの時間に居るのか。
じっと大人しくしている様子から悪戯の類いではないと思った。
逃げ出して、来たのだろうか。
気が付けば私は彼女を家の中へと招いていた。
招いたとは言っても私がしたことはただ庭に面した掃き出し窓を開けただけである。
呆気にとられた可愛い顔をして初めは戸惑っている様だったが、私が無言で踵を返しパソコンの前に向かうと暫くしてから恐る恐るといった体で入ってきた。
その仕草がまた可愛らしくて。
パソコンに向かう振りをして鏡にその姿を反射させて観察してみれば、彼女は畳まれた布団の辺りで落ち着く場所を見付けたらしかった。
ランドセルから算数の計算帳と思しきものを取り出すと勝手に勉強を始めた。
きっと今頃の時間割りの教科が算数なのだろう。
静かな部屋の中で迷いなく鉛筆の走る音が聞こえてくる辺りどうやら彼女は優秀な頭脳の持ち主らしい事が窺い知れた。
淀みなく紡がれるその音につられる様にして、私もパソコンに目を向けるとあれだけ行き詰まっていたのが嘘のように手が進んだ。
筆が乗るとはこの事か。
彼女の存在を一時忘れて夢中になって世界を紡ぐ。
これ程楽しく集中できたのはデビュー作を書き上げた以来だろうか。
久しく忘れていた感覚に私は完全にトリップしていた。
現実世界に意識が戻ったときには既に少女の姿はなく、日は落ち辺りは暗闇に包まれていた。
パソコンの人工的な光が目に刺さり痛い。
部屋の中は彼女が居ない事以外は何の変化もない。
あまりの変化のなさに目頭を揉みながら彼女は私が見た幻かと思い始めたとき、手元に紙が触れる感触がした。
『おじゃましました』
丁寧な字で書かれたそれは何かのノートの切れ端だった。
彼女は実在したのである。孤独に飢えた私の脳が作り出した幻ではなかった。
しかし、もう会うことも無いだろうと思った。
気紛れに招いた小さなお客様は、我が家の待遇の悪さを思い知ったのだろうから。
その日は久し振りにお風呂に入って布団を敷き眠りについた。
翌日。
昨晩は、と言うより昼もご飯を抜いてしまっていたので流石に何か胃に入れようとお一人様仕様の冷蔵庫を開けその中身を確認して絶句した。
賞味期限が二週間も切れた卵が七個。黒く変色し白いふわふわが付いた豚肉に、緑の水玉模様が浮き出た食パン。
様々な栄養素の入ったゼリー飲料が五個にこれまた様々な栄養素の入ったブロッククッキーが二箱。クッキーの方は何故か両方とも個包装が開いており湿気って駄目になっていた。
昨夜はよく眠れたので空腹だが元気はあった。
確か今日はゴミの日であった筈だ。町内会の有難いゴミ一覧表で確認すると急いで無駄になった食材達を袋に詰めゴミを出しに行った。
生き残っていたゼリー飲料を口にしながら十日ぶりくらいに洗濯機を回して掃除機もかけ家を綺麗にすると、何だか久し振りに人間に戻ったような感覚を得た。
部屋が、ううん、世界が輝いて見える。
洗濯物を干しに庭へと足を向けた所でランドセルが目に飛び込んできた。
昨日の少女だ。
またも無言で窓を開けて物干し竿の方へと向かう。
干している間、彼女は大人しく踞ったままでいた。
そう多くない洗濯物はあっという間に干し終わる。
空になった篭を手に部屋の中へと戻るが、窓はそのまま開けておいた。きっと彼女はまた恐る恐る入ってくるだろうから。
さて、では今日も続きを打ちますか。
この二年ほど死んでいたやる気が沸いて出るのに任せて手を進める。
また夢中になり気が付けば夜。
彼女の姿もなく、また一言も話さないままで一日が終った。
それから平日は毎日彼女が訪れるようになった。
いつだったか、途中で『食材があればご飯が作れるのに』と言う呟きが聞こえて来て、その日の夜に遅くまで開いているスーパーへと買い物に出掛けた。
何を買えば良いのか分からなかったので無難に卵とソーセージと半分に切ってあるレタス、調味料は味噌と濃縮めんつゆ、主食に米一キロとパックご飯。
お茶の二リットルのペットボトルと、少し考えて飲みきりサイズの果物ジュースを数本購入した。
日頃の出不精と運動不足と不摂生で落ちた体力と筋力にはこの量の買い物は堪えた。
特に米とお茶、何故購入したのか疑問を覚えるがテンションが上がっていたんだろうな私。
ふらふらにしながら帰り、翌朝を筋肉痛で迎えた。
食材を買ってきてみれば本当に彼女はご飯を作ってくれるようになり、それを少女は食べていた。
そうだ、健康な少女にはお昼ご飯が必要だったのだ。
当たり前の事を思い出しそれまでの自分の不摂生さを恥じた。
少女はご飯を作るようになってから学校への登校を再開したのか、平日は夕方に現れるか来ないかのどちらかになった。
仕方がない。彼女には彼女の生活があるのだから。
それに学校に行けるのならばその方が良い。
少し寂しさも覚えたが、私も執筆の合間に自炊するようになった。小さくなった胃で食べられる量は相変わらず少ないが以前より健康的な生活を送るようになったと思う。
それもこれもあの少女に出会ったことが切っ掛けだ。
それからの三年は甘い砂糖菓子で出来た夢のような日々だった。
ある日の夜遅く、パソコンに向かっていると庭に人の気配を感じた。彼女だ。
急いで窓を開けて招き入れると酷く泣き腫らした目をしており憔悴していた。
いつも朗らかで元気一杯な彼女の様子とはかけ離れた姿に間違いなく別れの時が近いと知った。
初めて出会った頃は私の胸に届かないくらいの背丈だった彼女も大きくなり今や私の肩にまで迫っていた。
慰める様に優しく抱擁したい気持ちに駆られるがぐっと耐える。
野良猫のようにある日突然ふらりと現れたこの少女は実は裏の家の住人で、それは出会って割りとすぐに知った事だったがその事実を本人に確認するでもなく何故家に来るのか聞くでもなくそういうものと受け止めていた。
その彼女のご両親が最近ご近所へ引っ越しの挨拶をしていたと隣家のスピーカーおばさんに聞いた。
遂にその時が来たのだ。
目の前の少女を見詰め出会いから今までを振り返る。
出発は明日だろうか、明後日だろうか。夏休みに引っ越すのはよくあること。
彼女がいつ来ても良いようにと苦手な空調も、もう入れる必要が無くなる。
私も辛いし、泣きたい。でもこの年齢で親と離れて暮らすなど出来はしないのだ。
「あまり親を困らせちゃ駄目だ」
感情を悟られまいと出した声は想像以上に冷たい響きを持っていた。
私はもう彼女の事が見れなくなりパソコンへ向かうと感情を叩き付ける様に出鱈目に文字を打った。
そうしている間に彼女は家へと戻って行き、それ以降顔を見せることなく引っ越して行った。
また、灰色の日々が戻ってきた。
しかし、不摂生を恥じた時の思い出にすがる気持ちで私は自炊を続けた。
それから数年が経ち彼女と過ごした日々を題材に執筆した小説は少しだけヒットした。
これで私の気持ちも少しは整理が着いた。
彼女と別れた夏が今年もまたやってくる。
私は気紛れな彼女がいつ来ても良いように、空調を三十度に設定し、秋になるまでずっと付けっぱなしにすることが毎年の夏のお決まりになっていた。
それを始めてもう何度目の夏を迎えるのだろう。
若いときの不摂生が今になって祟り、私に襲い掛かるようになった。四十路は身体にガタが出始める頃である。お世辞にも自炊はするがそれ以外に健康な生活を送ってきたとは言えないので、ある意味当然と言えば当然だ。
次に彼女と会えるのはいつだろうか。最悪な別れ方をしたのだからとっくの昔に嫌われて、このまま死ぬまで二度と会えないのだろうか。
叶うなら、健やかに笑う彼女の姿が見たかった。
あの可愛かった少女は今はもう綺麗な女性になっていることだろ。
順風満帆で幸せな人生を送ってくれていると信じよう。
今日もまた、目を閉じれば少女の笑顔が思い浮かぶ。
身体は酷く辛かったが目を閉じれば自由に好きな景色を浮かべることが出来それが唯一私を慰めた。
おやすみ、おやすみ。
きっとまた会えるといいな。
~その後の女性作家視点~
ぶんぶんと、五月蝿い羽音が時折私の眠りを邪魔する。
起きたのはいつ、寝たのはいつ、分からないけれどもうどこも辛くない。
置物と化した身体とは別に心は自由に動けた。
今日は起きた時から予感がした。彼女が近くに来ている気配がするのだ。嬉しい、やっと会える。
彼女は私を忘れてなどいなかった。
今度こそしっかりと抱き締めて、あの時冷たくした事を詫びようと邂逅の時を待つ。
庭が騒がしくなってきて、開け放たれた窓から射し込む光の中に綺麗に成長した彼女の姿を見た気がしたが両腕を広げた刹那、強烈な眠気に襲われ意識が保てなくなってしまう。
ああ、ごめんね、また今度ね。
それからは起きる度に知らない人が家に居た。
彼女との思い出の場所に無断で侵入するなと私は怒った。
何度目かの目覚めで、幼い頃の彼女と瓜二つの幼子が現れた。
この幼子の存在は特別に許そう。
眠りと覚醒の間で成長していく彼女に瓜二つの少女の傍らに、懐かしい面影を持つ女性が居ることがあった。
その眼差しに、私は理解した。私は彼女を待っている間にとっくの昔に死んでいたのだ。
彼女に瓜二つの少女は彼女の娘。
懐かしい面影を持つ私と同年代くらいの女性が彼女本人。
ありがとう。また会いに来てくれて、ありがとう。
何度も来てくれていたのに気が付かなくてごめんね。
そうして私は今度こそ両腕に彼女を抱き締め幸せな気持ちのまま目を閉じると白い光に包まれた。
~終わり~
ありがとうございました。