16 (フィリア)〇
ハンコックとの交渉がスムーズに進み、こちらの当てがない大工をハンコックに紹介して貰い、クラウド商会から100m程、離れた川の近くの場所にマシュー家が建てられた。
家はレンガの建物で、家のデザインはクラウドが行い 電線や水道を後から こちらで通せる様にしてある。
そして、オリビアとマシューが マシュー家で寝泊まりを始めて3ヵ月程経った。
「オエッ」
キッチンでの料理中に オリビアが吐き気を感じ、背を向ける。
「また食中毒か?今度はオリビアか?」
収支報告書を作っていたナオは オリビアの方向を見て言う。
「いえ…多分…これは 妊娠でしょう。
子供を授かりました。」
「はぁ?…相手はマシューか?」
「ええ…子供が生まれれば しばらく 仕事が出来なくなるで皆に黙っていました。
すみません」
てことは つわりか…。
「いや…女性を雇った時点で、産休は織り込み済みだ。
そこは心配しなくて良い。
ただ、産婆さん…助産婦か…それどころか ここら辺には 医者そのものが いないだろう。
そうなると子供が心配だな…本国から ちゃんと治せる医者を持って来る事も出来るが…」
この時代の医者と呼ばれる人物は『血液』『粘液』『黄胆汁』『黒胆汁』のバランスが崩れる事で病気が発生すると言う『四体液説』と言う2世紀辺りに発表された間違った古い学説を盲目的に信じている人が大半で、医者に大金を払って毒物を処方されて『人を治療治すのでは無く』『人を殺す』のは有名な話で、数々の民間療法が発展してきた。
「そんな…私 1人の為に…」
「いや、オリビアだけじゃなくて、クラウド商会に常駐する医者がいても良い気がしてな。
一応、オレも 真面な医学の知識は あるんだけどな~」
『こちらナオ…ハルミいるか?』
オレは量子通信でトニー王国にいるハルミに話しかける。
『はいはい…今度は どんな病気?』
『いきなりだな』
『最近 その位でしか 連絡を入れないのが悪い。
クオリアには 月1の業務連絡だけだし…で、それで…』
『オリビアが 妊娠した。』
『オリビアって…確か 食堂のコックだよな。』
『ああ…オリビアの出産の事もそうだが、従業員の健康の為に常駐の医者が必要だと思ってな。
誰かハルミが教育した優秀な弟子を送ってくれないか?』
『優秀な弟子ね。
ナオも私の授業を受けた 優秀な生徒じゃなかったか?』
『…そうだが…オレが習ったのは 衛生兵に必要な救急救命士の知識であって、産婦人科は習っていない』
オレがハルミから習ったのは、救急救命士。
医者が怪我や病気を『治す』のに対して、救急救命士は 病院まで患者を『生かす』のが目的だ。
具体的には 撃たれて空いた人間の穴を塞いで血を止め、野戦病院に運ぶまで生かし続けるのがオレの仕事になる。
まぁそれに加えて、オレは 体内に入った弾を取り除く為の外科や、戦場での ストレスからくる 消化不良での下痢…風邪やマラリアなどの風土病 何かに対応する為に内科もかじっているが、全部 戦場で部隊を運用して行く為の知識であって、学んでいる分野は広いが、それぞれの分野の知識量は 非常に浅い。
『なら、今から学べばいいさ…産まれるまで まだ時間はある。
それに 救急救命士だったら、車内で出産に立ち会う事も普通にある。
対処方法はドラムに従っていれば 大丈夫だ。』
『オレ…男なんだが…。』
『男の助産師も そこまで珍しくない。
セクハラを警戒するなら、事前に本人に確認を取って契約書にでもサインさせろ。
医者がセクハラを怖がっていたら 救える命も救えないからな。
ナオも人を殺して ばかりじゃなくて、少しは 人を生み出して見たら如何だ?』
『オレが怖いのは、産まれた後なんだけどな…分かった。
この時代の医者に任せる寄りかは 安全だろうからな。
本人が納得したらオレが担当するよ』
『分かった。
それじゃあ、患者の報告だけは続けてくれ』
『了解…交信終了「ふう…こりゃマシューも呼んでこないとだな。
マシュー達は休日だからプライベートに干渉する事になるんだけど」
「構いません…これは 私のプライベートの事ですし…。」
「オリビアに子供が出来たって…確かに少し膨らんでいる様な…」
「まぁ…この服じゃ多少膨らんでいても分からないだろうしな。
で、2人に相談だ。」
「何だ?」
「現状で この周辺に真面な医者はいない。
つまり、オリビアは 自力で出産する事になるんだが…医者がいた方が母子共に安全性が各段に上がる。
オレは外傷や内服がメインだが、出産を手伝う事も出来る。
2人に許可を貰いたい。」
「オレは 別に構わないが…」
「あ~」
オリビアが気付いた様に顔を赤くして言う。
「なんだ?」
「つまり、自分の妻の股を開かせて 異性のオレが 赤ん坊を取り上げる事になる訳だ。
夫として それは良いのかと…」
「確かに 他の男に そんな事を されたら怒りたくも なるが、産まれたばかりの子供は簡単に死ぬと聞く。
オレ達の子供の命には 代えられないな…オリビアは如何だ?」
「確かに恥ずかしいですが、この子の為です。
ナオ…お願いします。」
「分かった。
それじゃあ、オリビアは椅子に座って大人しくしてくれ。
無理せず安静にしているんだ。」
「はい」
「さてと…まずは、医務室を造る所からかな…」
オレは 今後の事を考えながら そう言うのだった。
ハンコックに紹介して貰った家具職人にオレが書いた設計図を渡してオーダーメイド注文をして おおよそ2ヵ月。
「業者から貰って来たぞ」
いつもの運送業務から戻って来たマシューが食堂で書類を見ていたオレに言う。
「ああ…行く」
バギーが止まっている荷下ろし場に出ると、マシューの他の従業員達とドラムが、荷馬車に乗った荷物を降ろして行く…。
その中で マシューの荷馬車からオーダーメイドした家具を2人で持ち上げて床に降ろす。
「よっとと…」
家具は ガラスの扉が取り付けてある木製の3段構造の食器棚で、3段目の床棚には等間隔で穴が空いており、2段目の引き出しの天井に繋がっている。
2段目の引き出しを引くと、床は鉄板になっており、縦長の1段目の扉を開けれると、壁が耐火性の高いモルタルで出来ている。
そして その下には キャスターを模した木製のタイヤが付いており、押す事で移動が出来る様になっている。
「この棚…特注だって言うのに キッチンに合わなくないか?」
キッチンの横の日が差さない薄暗い場所に食器棚を置いた所で マシューが言う。
「まぁ これ保育器だからな…」
「保育器?」
「そう、産まれた ばかりの赤ん坊を入れておく棚。
赤ん坊は 体温調節が難しいから、暑いと汗をかいて脱水症状で死ぬし、寒いと体温を上げる為に少ない身体のエネルギーを使って死ぬ。
だから適温に温度を保つ設備が必要なんだ。
これが あるだけで、赤ん坊の生存率がぐっと上がる。」
オレは一番下の棚にバーナーとガスボンベを入れ、2段目には水を…3段目には 清潔なタオルと棚の内側に水銀の温度計を張り付け、ガラスの扉を締めて転落防止用の ひねるタイプの鍵を掛ける。
一番下の棚にあるガスバーナーに火を付けて 天井の鉄板を熱し、その熱が水を過熱させ、蒸気が穴を通ってタオルを温めて 棚の中の湿度と気温が上がり始める。
「これで37℃を維持し続ければOK」
「37℃って…かなり暑くないか?
ここって夏場でも 25℃に位しか ならないし」
「それはオレ達が 皮下脂肪で 体温が外に抜けにくくなっているからだ。
皮下脂肪が まだ薄い 赤ん坊は簡単に体温が奪われる。
ここだと、真冬は-10℃位になって 室内でも かなり寒くなるから冬に生まれた子供の生存率は かなり低いだろうな」
「オリビアの出産予定は4月の始まり…0℃から10℃の時季だ。
赤ん坊には厳しい時季って事か…」
「そう言う事…だからコレが必要な訳…。
体重が3㎏を超えるまでは ここで育てる事になるな」
トニー王国製の保育器だと空調は粉塵フィルタを通して供給され、気温や体温、呼吸や心拍数、酸素濃度も徹底管理されているのだが、こっちにオーパーツ機材を大量に持ち込む訳にもいかず、現地で手に入れられるギリギリの素材で作られている。
まぁこれでも1500gまでの新生児なら対応 出来る。
逆に言うなら 1500g以下のレアケースを引いた場合、高確率でお手上げ状態だ。
「これで全部 そろったな…」
オレは少し不安な様子で、オリビアが 腹が大きくなってから泊っている2階の個室の方向を見るのだった。
そして1757年 4月2日、夕食どき。
「ナオ…オリビアが破水した、そろそろ産まれるぞ」
ここ1ヵ月程、内勤をしながら オリビアを見守って来たマシューがドタドタと階段を鳴らしながら言う。
食堂では皆が食事を取っており、一斉にマシューの方に顔が向き、静まり返った。
「分かった。
マシューは 保育器に使う湯を沸かしてくれ。
練習通りにやれば出来るさ。
皆はそのまま…お静かに」
オレは タオルを持って階段を駆け上がり、床を濡らしたオリビアに肩を貸して医務室に連れてベットに寝かせる。
無菌室には出来なかったが、蒸留酒を使った 代用アルコールを霧吹きに入れて 部屋中を除菌しており、手にも蒸留酒を吹き付けて除菌を行う…なので、医務室は 酒臭い。
「オリビア、呼吸が乱れている 練習しただろ ラマーズ法」
「分かってる…だけど、かなり痛い…」
オリビアは思い出した様にラマーズ法を行って呼吸を整える。
「鎮痛剤は 打てないんだよな…頑張れよ」
そして、数分後…。
「頭が出て来た…よし、もう少し、よし抜けた。
女の子だ…オリビア大丈夫か?」
「何とか…それより赤ちゃん」
「ああ…」
体重が軽い…そして産声が まだ聞こえない…呼吸をしていない?
オレは女の子を逆さまにして背中を叩く。
「かはっ…」
女の子は 口から詰まっていた何かの液体を吐き出し、無事 産声を上げ、肺呼吸が始まった。
よし、呼吸、心拍問題無し。
「驚かしやがって…ハローワールド…お嬢さん。
オレ達は あなたを歓迎するよ」
オレは 心の底から 女の子に言えた。
なるほど…こんなに この子は 軽いのに確かに 生きようとしている。
産まれて来た事を後悔していたオレだが、少なくとも この時点では生きたいと思っていた…。
それが 確信出来るだけの論理的ではない『生命力』と表現するべき物をこの子から感じる。
オレはクリップで へその緒を止めてハサミで切断する。
アルコール入りの ぬるま湯で濡らしたタオルで身体を綺麗に拭いて行き、上皿はかりに女の子を乗せる。
1590g…持った時の予想通り、割とギリギリだ。
新しいタオルでしっかりと包んで、オリビアに抱かせる。
「私の子…でも軽くて小さい。」
「1590gだ…でも、必死に生きている。
お疲れ…こっからは オレの仕事だ。」
オレは オリビアから女の子を引き取る。
「助かる?」
「保育器で助けられる範囲…。
約束は出来ないけど、最大限の努力はするよ」
普通なら『大丈夫』って 元気づける所なのだろうが、確約が出来ない程度にはヤバイ。
オレは女の子を抱えて急いで食堂に向かった。
「おおっ産まれたか…37℃に調整してある」
保育器の前でマシューが言う。
「OK…よっと」
オレはタオルでベッドを作り、上半身が裸で 下半身をタオルで包んだ女の子の脇に体温計を挟んで テーブルの上に乗せる。
上半身が裸なのは 汗をかいて体温を下げる場合、タオルがあると温度が下がりにくく なるからだ。
「本当に小さいな…助かるのか?」
「保育器が無かったら助からなかった。
体温は35℃か…少し低いな…輸液する。
144mL…」
「分かった」
マシューは 冷蔵庫に入れていた水5、ナトリウム3、カリウム2の割合で入れた輸液を計量カップで144mL測り、輸液バッグに入れて行く。
オレは その間に新生児の左手首の極細の血管に輸液用の針を細心の注意を払って入れて行く…よし、入った。
続いて輸液用のチューブを取り付けて 保育器の中に寝かせ、上部の点滴用の穴を通してチューブを外に出して ガラスの扉を閉じ、転落しない様に鍵を閉める。
そして、チューブにコネクタ、クレンメ、点滴筒、びん針、輸液バッグと繋げていく…輸液バッグを保育器の上に取り付けて これで輸液の準備は完了だ。
子供の輸液量は 4mL×体重で1時間辺りの輸液量が割り出せる。
女の子の体重は1.5kgなので6mL…この点滴は30摘で1mLになるから、合計180摘、それを60分で割ると1分間に3摘…。
オレは時計を見ながら、1分間に3摘の量になるように合わせる。
「取り合えず こっちは OK…。
マシューは オリビアの所に行ったら如何だ?
オレは メンタルまで気を配れないからな」
「分かった…ナオ…ありがとう。」
そう言うとマシューは階段を上って行った。
「ふう…」
オレは保育器が見える位置に椅子を持って来て座る。
食事をしていた従業員達は、取りあえず 落ち着いたオレの様子を見て保育器の中の女の子を見に来ている。
「お疲れ…」
クラウドがやって来てオレに言う。
「本当にね…まぁオリビアの方がお疲れなんだろうけど…。
はたして ちゃんとサポート出来たのか…」
「少なくとも 今は十分に役に立っているよな…。
それで、あの子は?」
「体温が若干低いけど、心拍、脈拍、呼吸問題 無し…。
ただ、1週間位は 怖いから夜中も見張ってる。」
「分かった 仕事の調整をして置く。」
「頼む…」
オレは そう言うと、心配そうに保育器を見るのだった。
そして、1ヵ月半…。
当初は 軽くて心配だったが、1ヵ月で1㎏程体重が増えて行き、夜泣きでオリビアが悩まされていた 程度で特に問題も無く、無事3㎏を突破した。
「おめでとう…保育器は卒業だ。」
従業員が見守る中、オレは保育器の扉を空け、今までタオルを身に着けている状態だった女の子は、紐の長さを調整する事で ある程度サイズを調節出来るワンピースを着せ オリビアに渡される。
長い丈とは言え ノーパンなのが 少し気になるが、そもそも 下着自体 まだ庶民に普及していないので、仕方ないと言えば 仕方ない。
「で、名前は決めたのか?」
この土地では 新生児の死亡リスクが高い為、生後から1ヵ月程度 開けて健康だった場合、正式に生まれた扱いになる。
その為、この女の子には まだ名前が無い。
「ええ…フィリアにしました。」
「そうか…よろしくフィリア…」
「あう?」
オレはフィリアの頭を軽く撫で、オリビアは マシューの元に向かって行った。
「子供って良いものだな…」
オレが親子3人の光景を見て言う。
「ナオが それを言うと少し危なく感じるんだが…」
「まぁ それなりのモラルは 持っているつもりだよ」
オレは隣にいる クラウドにそう返すのだった。