第2話 アルフレッド12歳出会う③
大都市クラングランとはいえ、夜ともなれば人通りは少なくなる。
それでも街灯の明かりと建物の窓からもれる光りで歩くのに不便はない。
アルは夜の通りをトボトボと歩いていた。
荷物を盗まれたことに気づいたアルは、すぐに探し回った。
まずは公園を囲う環状道路。ここは露店や屋台の立ち並ぶ市場になっており、たくさんの人がいた。
目を皿のようにして探し回った。
見つからなかった。
次に、公園周辺の道を走り回った。
ついさきほどまで探していたが、さすがに空腹と疲労で倒れそうになり、捜索を断念した。
とにかく、なにかを食べようと思い、公園を出てきたところである。
かえすがえすも自分のうかつさが呪わしい。
マリーにもしっかりと注意されていたというのに。
セイルがくれた手帳と鉛筆も。餞別も。
ジャックがくれた棍棒も。
父から聞いた話を思い出しては書きまとめていたノートも。
そしてなによりも母の形見である時計も。
すべてが盗まれてしまった。
残ったのは身につけていたいくつかの大帝石と多少の金。それに装備品だけである。
足どりがどんどん重くなっていく。
無理もなかった。
早朝からの長旅のうえ、荷物を探して走り回ったのだ。
食事といえば、馬車の荷台で食べた干し肉くらいである。
思い出したように腹が鳴った。
怒声のような大きな音である。
どんなものでもよいから口にしなくては倒れてしまう。
大通りは高級な店が多かったので、何本か折れて裏通りへ行った。
裏通りになると道幅は狭くなるが、それでも車道と歩道が別れており、街灯も立っている。
アルは少しでも明るい方へと歩いていった。
店がたくさんあるところには安い店もあるだろうと思ってのことである。
やがて料理屋と酒場の立ち並ぶ一帯にやってきた。
道幅は広くはないが車道と歩道に分かれていないために、ゆったりとしている。
右から左から良い匂いがただよってきて、アルの腹は、もはや我慢は限界だとばかりに盛大に抗議の声をあげている。
『安くてうまいスープ麺』という看板の店の前で足を止めた。
『スープ麺』とはどんなものだろう、とアルは思った。
スパゲティならば小さい時に街で食べたことがある。だが、それはスープが入ってなかった。
窓からもれてくる匂いがいい。
とても食欲をそそる。
アルはスープ麺を食べることに決めた。
しかし、いざ店内に入ろうというときに、別の、これまた美味しそうな匂いがただよってきた。
斜め向かいの店だ。
通りに突き出てぶら下がっているのは、ご飯が山盛りになった看板。
アルは気になってそちらへ足を向けた。
『ジャージャーライス』と店のドアの上に書かれている。
そして、窓からは煙とともにジャージャーとなにかを炒める音が聞こえてくる。
異世界パルミスでははるか昔に世界を統一した大帝アルトロンにより、多くの料理が生み出された。
またアルトロンは地方独自の食文化も尊重し、すぐれた料理人たちを帝都へと招いた。
そのため帝都では様々な食文化が混在し、融合していった。
アルトロンの死から2千年近く経つ現在では、元はどこに由来する料理なのかも定かではなくなっている。
ようするに米料理はとてもありふれているのである。
腹の減った少年に『ジャージャーライス』といういかにも味が濃くてコッテリとしていそうな言葉が、どれほど魅惑的に響いたことか。
アルはよだれをたらさんばかりの表情で、『ジャージャーライス』のドアに飛びついた。
だが、またしてもアルの鼻をくすぐる別の匂いがあった。
今度も斜め向かいだ。
甘くて頭の中までとろけてしまいそうな匂いだ。
アルは甘いものが大好きだ。
『シュークリームの店 フラン』。シュークリームがどういうものなのかわからないが、アルは走った。
絶対にうまいものに違いない。
しかし、道を横断しようとしたアルに、なにか大きなものがぶつかってきた。
アルの運動能力は高い方だが、今は疲れ果てていたし、シュークリームに夢中だった。
アルははね飛ばされた。
地面の石畳に頬をぶつける。
アルをはねていったのは身長2メートル近くある大男だった。
ただ背が高いだけでなく、たくましい体は服の上からでも筋肉の膨らみがわかるほどだ。
黒いジャケットの袖をまくりあげ、黒いハンチング帽を目深にかぶっている。
男はアルを振り返りもせずに走り去っていく。
大柄なのに足が速い。暴走する牡牛のような走りだ。
なんだったんだ、と立ち上がったアル。
そこに次の突進者がやってきた。
真っ赤な長い髪をした少女だ。
今度はアルも反応した。
ぶつかる前に横に跳んでかわす。
それが仇になった。
少女もまったく同じタイミングでアルと同一方向にかわしたためだ。
2人は空中で激突した。
アルは少女にぶつかり、またしても吹っ飛ばされた。
一方、少女は人とぶつかった事実などなかったかのように着地をして、そのまま走っていく。
ごめんね、という言葉と銀色のなにかを落として。
少女の背中が急速に遠ざかっていく。
アルは彼女の落とした平たい物を拾った。
銀製のクシだった。
歯と歯のあいだがとても狭く、持ち手には女性の横顔が彫り込まれている。かなり高価な代物に見える。
アルは『シュークリーム屋フラン』を振り返り、ため息をついた。
少女の走っていた方向へ走りだす。
一方、少女と大男の追いかけっこは繁華街の外まで続いていた。
人通りの少ない道である。
立ち並ぶのは住宅ばかり。
鎧戸でふさがれた窓からもれる明かりが、石畳に細い線を落としている。
スピードは少女の方が圧倒的に速く、ぐんぐん大男に近づいていく。
すでに少女は大男と5メートル程度の距離まで近づいていた。
少女が跳んだ。
いや、飛んだのか。
斜め前方へ高くジャンプした。
3m近くは跳躍しただろう。民家の壁を蹴って、さらに跳ぶ。
男の正面に着地した。
大男は目の前の少女を信じられない思いで見た。
なんなんだ、こいつは。
真っ赤な鮮やかな髪を腰まで伸ばした少女である。
年齢は12、3歳くらいだろう。
美しい顔立ちをしている。
特にその緑色の瞳は光に透かした宝石のように輝いて見える。
洗いざらして色が薄くなった青い膝丈のスカートに、袖口や襟のほころんだブラウス。襟には赤いリボンを結んでいる。
今の季節にはずいぶん薄着ではあるが、それ以外、これといっておかしなところはない。
ごく普通の少女である。
「ねえ、あたしのお財布取ったよね」
少女が少し舌っ足らずな高い声で言った。
「返して」
大男はスリである。
人混みで獲物を探しては頂戴して日々の糧を得ていた。
少女を狙ったのは、彼女が腰から下げた財布の袋に十分中身が詰まっていることを見たからである。
さらに、ベルトへのゆわえ付け方もまるでなっていない。
獲物としては最適だった。
まさかあっさりと自分に追いついてしまうとは思いもよらなかった。
それもサーカスの軽業師のような身軽さで。
だが、と大男はもう1度、少女を頭から爪先まで眺めて思った。
追いついたからどうだってんだ。
「こいつは俺がありがたく頂戴してやる」
懐に入れた少女の財布を、ジャケットの上からポンと叩いた。
「痛い目にあいたくなけりゃあ、諦めなお嬢ちゃん」
ドスの聞いた声で言った。
「痛い目?」
少女が小首をかしげた。
「なんで?」
「俺がこいつでぶん殴るからだよ」
大男は固めた握り拳に、ハアッ、と息を吹きかけた。
「痛えぞ、おい」
「痛いの?」
「痛えんだよ」
大男は怒鳴った。
「なにしろ俺はハードパンチャーだからな」
ふ~ん、と少女は大男を見た。
「さっさとどっかいかねえと、ぶん殴っちまうぞ」
大男はブンブンと右腕を振り回した。
体格に恵まれた彼のパンチは確かに威力がありそうだ。
「あんまり痛そうに見えないけどなあ」
怒声をあげながら大男が大きな拳を少女に向かって振り下ろした。
大男の脳裏に、自分のパンチを顔面に受けて鼻血をまき散らしながら吹っ飛ぶ少女の姿が思い浮かんだ。
「あっ、あれ」
今度は大男が首をかしげる番である。
彼のパンチは少女の顔に届かず、途中で止まってしまった。
少女の手の平が大男の拳を受け止めていた。
男は拳を引くと、今度は全力で少女を殴りにいった。
俺のパンチは最強だ、と念じる。
少女が消えた。
大男の懐に飛び込んだのである。
少女が大男の腹を殴った。
大男が後ろに勢いよく倒れた。
ところでアルフレッドだが、彼はようやく現場に到着したところだった。
そして、運悪く、倒れた大男に巻き込まれた。
なんだかよくわからないままに白目を向く大男の下から這い出したアル。
赤毛の少女が彼を不思議そうな顔で見下ろしていた。
「楽しい?」
「楽しいわけないだろ」
アルは言った。
彼の方からでは少女の立ち回りが見れなかったので、それこそわけがわからない。
「なんなんだよ、いったい」
「じゃあ、なにしてたの? そんなところで」
「知るもんか」
「変なの」
少女が笑った。
実にくったくのない幼子のような笑顔である。
アルは少女を追いかけていた目的を思い出した。
ベルトにつけている小箱から、少女が落とした銀のクシを出した。
「これ、落としたよ」
少女がベルトに手をやった。
小袋が1つかかっている。
わあ、と少女がすっとんきょうな声を出した。
「本当だ。いつ落としたんだろ」
「さっきぶつかったでしょ、そのときだよ」
「ふ~ん、そうなんだ」
少女はアルからクシを受け取ると袋にしまった。
なんだか変な子だなあ、とアルは思った。
アルが首に巻いているスカーフと同じ色の髪。食べ頃のイチゴの色をしている。
しかし、アルが気になったのは、少女の容姿よりも彼女がどうやって大男を倒したかだった。
体格が圧倒的に違う。
少女はスラっとしていていかにも華奢である。
大男どころか、同い年の男の子にも軽くあしらわれてしまいそうだ。
「君が倒したの?」
「そうだよ」
少女はアルにあまり関心がないらしく、倒れている大男の横にしゃがみこんで調べている。
「どうやって」
少女はそれには答えなかった。
無視しているというよりもアルの言葉を聞いてないようだ。
アルはどうやったのか気になったが、それ以上聞くのはやめた。
なによりも腹が減って仕方がなかった。
「じゃあ、さようなら」
アルは少女に背を向けて歩き出した。
「ねえ」
アルが振り向くと少女は満面の笑みを浮かべていた。
「ありがとう」
どういたしまして、と言おうとしたアルは、彼女が大男の懐から取り出した袋を見て、固まった。
紺色の布の巾着袋である。
セイルが学校で集めた餞別を入れた袋にそっくり。
白い糸で、「アルフレッドへ」と刺繍してある。
間違いない。
アルの表情が変わったことに少女は気づかなかったらしく、小首をかしげたまま、戻ってくる彼を見ている。
アルが少女の前に立って見下ろしても、彼の心境の変化などまるで気づかないようだ。
「なあに?」
無邪気な顔で言った。
「俺のだ」
アルは口からほとばしりそうになる怒りを押し殺して言った。
「それ、俺の」
「これ?」
少女が袋を指差して言った。
「これはあたしのだよ」
「俺のだよ」
アルは少女が口を握っている巾着袋に手を伸ばした。
しかし少女はさっとアルの手をかわした。
緑色の目でアルを睨む。
「しつこいなあ、これはあたしの」
「そこにアルフレッドへ、って書いてあるだろう」
少女が袋の刺繍を見た。
それからアルの顔を見た。困ったような顔だ。
「あたし、字が読めないんだ」
「お前、昼間、公園で俺の荷物を盗んだろ」
荷物がなくなっていたことに気づいた絶望感を思い出して、アルの怒りがふつふつと高まった。
少女がポンと手を叩いた。
「ああ、そういうこと。それを早く言ってよ」
そして少女は本当に幸せそうな笑みを浮かべた。
「ありがとうね。あんたのおかげでたくさん美味しものが食べれたよ」
「ほかの物はどうした?」
「えっ、売っちゃったよ」
ついにアルの忍耐も限界に達した。
怒声をあげながら少女につかみかかった。
しかし少女はアルの手からスルリと抜けた。
「なに、いきなり」
少女が驚いた顔で言った。
「なんで怒ってるの?」
「怒らないヤツがいるか」
アルはもう一度少女につかみかかった。
少女はアルの頭に手を置いて、ヒラリと彼を飛びこえた。
「このっ」
アルはなんとか少女を捕まえようとするのだが、疲労と空腹のせいで動きに精彩がない。
そして少女はあまりにも身軽だった。
少女は遊んでいるようだった。
アルをギリギリまで引きつけておいて、寸前で見事にかわしてのける。
アルは彼女の残像ばかりをつかまされた。
いつのまにか、2人のまわりには人が集まっていた。
通りがかりの者が足を止めて彼らの追いかけっこを見ている。
アルや少女に声援を送る者もいる。
必死なアルとは対照的に少女はとても楽しそうだ。
笑い声をあげながら、目をキラキラさせてアルの手を逃れている。
それにしても身体能力の高い少女である。
3メートル程度の高さは軽々と跳躍するし、前方宙返りも後方宙返りもトンボ返りも側転も側宙も思いのままだ。
観客たちはそんな彼女の華麗な動きを楽しんでいる。
ついにアルが倒れた。
なにも食べずに何時間も動き回っていたのだから当然である。
前のめりに倒れて、そのまま大の字にうつぶせになった。
トン、と華麗に着地した少女が心配そうな顔になった。
「ねえ、大丈夫?」
アルはなにも答えない。
死んでしまったかのように動かない。
「頭から水でもかけりゃあ、起きるだろ」「ほっとけほっとけ」
「死にゃあしないよ」
観衆がそんな言葉を投げながらショーは終わりとばかりに去っていく。
少女はアルのかたわらにしゃがみこんだ。
「ねえ、ねえ」
つんつんと黒髪の頭をつつく。
「ねえってば」
そのときアルが急に動いた。
がばっと跳ね起き、少女の赤毛をつかんで、引っ張った。
「つかまえたぞ、どうだ」
アルは気を失ったふりをしていたのである。
「俺の勝ちだ」
勝ち誇って笑う。
「汚えやつ」「最低だな」と残ってことの成り行きを見ていた人々が言った。
「それでも男か」
アルはちょっと情けなく思った。
しかし、重要なのは荷物を取り戻すことなのである。
「さあ、俺の荷物を……」
アルが言い終わる前に、白い手が伸びてきた。
アルの首をつかむ。
アルは息ができなくなった。
「あたしの髪に、なにした」
少女が緑色の瞳をギラリと光らせて言った。
光っているのは目ばかりではない。
彼女の体中から金色の光が立ち昇っている。
アルはそのまま少女に片手で宙吊りにされた。
腕力も強いが握力も強い。
喉にかかった細い指がギリギリと締まってくる。
少女がアルを放り投げた。
片手1本で無造作に、である。
アルはボールのようにまっすぐに宙を横に滑った。
10メートルほど飛ばされて、その勢いでゴロゴロと地面を転がった。
建物の壁にぶつかりやっと止まる。
苦痛にうめきながら頭をあげたアルは、黄色い光を立ち昇らせてゆっくりと歩いてくる少女を見た。
殺される、とアルは思った。
なんだかよくわからないままに、なんだかよくわからない奴に殺されてしまう。
恐怖で息がつまる。
心臓が激しく乱打する。
ふいに少女の体からにじみだすように出ていた光が消えた。
アルとの距離が2メートルほどまで近づいたときである。
「チャラだね」
少女が言った。
顔が笑っている。
「いろいろ奢ってもらっちゃったから、チャラにしてあげるね」
アルは一気に気がゆるんだ。
そのせいだろう、腹が盛大に鳴った。
「それで、なに食べる?」
しゃがみこみ、膝の上に頬杖をついた少女が言った。