第64話 サーベル21歳は対決する①
開いた窓から、中庭で咲く花々の匂いが風とともに入り込んでくる。
大理石の美しい意匠の彫り込まれた机についた青年の長い黄金の髪が、そよそよと風に舞う。
美貌の青年だった。
その憂いを含んだ青い瞳を向けられ、平常心でいられる女性はそう多くはないだろう。
青年、サーベルはしばらく目を落していた手紙をたたむと、まぶたを閉じた。
送り主は彼の母親である。
ベルの父ヴァルサ公爵オグンの容態が悪いので、至急、帰還されたし、という内容だった。
父オグンがここ数年、病に臥せっていることは知っていた。
本来なら長子として、後継者として、もっと早く呼び戻されるところである。それを阻止していたのは母のエカテリーナだった。病に倒れたオグンの代わりに彼女が領地を仕切っていた。
オルデン王国の中でも大領地のヴァルサ公爵領は、古くから排他的で自治の面が強い。オルデンの中の小王国というような位置づけである。
歴代のオルデン王たちもヴァルサ公爵にはかなり気を使ってきた。
ヴァルサ公爵によっては中央の栄華を求め、王宮に頻繁に出入りする者もいたが、現ヴァルサ公爵オグンは、中央にまるで興味を示さなかった。彼は自領の運営にその人生をかけていた。
オグンのおかげで、ヴァルサ公爵領は豊かになったが、その分、中央とのつながりは薄れた。他領ならば、領主が倒れたのならばすぐに、後継をたてるように王国政府が干渉するところだが、それもままならない。
下手につついて、へそを曲げられると面倒である。後継者はきちんといることだし、王とも親しい。いざとなったら、彼が立ち上がるだろう。
なにせ『勇者アルフレッド』の親友、『黄金の貴公子サーベル』である。
そういった理由でオルデン王国政府は、エカテリーナがヴァルサ公爵領を牛耳るのを黙認してきたのである。
ベルももちろん、そのあたりの事情は把握していた。
むしろ、王国政府が不干渉の方向になるように誘導すらしていた。
後継者としてヴァルサ公爵領に戻ることを先送りにしてきたのである。
だが、ここにきてヴァルサ公爵夫人から送られた帰還をうながす手紙。
無視するわけにもいかない。相手はいよいよ、決着をつけるつもりなのだから。
エカテリーナには幼い頃、幾度となく命を狙われてきた。
エカテリーナはベルの弟のランスを溺愛しており、彼をオグンの後継者としたがっていたのだ。
エカテリーナの手から逃れるために、ベルはヴァルサ公爵領を出てサンストン王国に逃れた。
あらゆる攻撃から身を守る『守りの指輪』を手に入れたことを契機に、クラングランへとやってきた。
やがてアルと知り合い、魔導師ソフィアスの一件にエカテリーナがからんでいる証拠を入手。ベルはそれをある人物に託した。
自分に何事かかが起これば、その人物が王国政府にエカテリーナの所業を告発する。それにより、ヴァルサ公爵領になんらかの措置がくだされるだろう。
ベルの父オグンは王国にも家族にも興味がなかった。領地運営のこと以外、まったく興味がないのだ。
先祖から受け継いできた領地を発展させる。ただそのことだけにすべての情熱を注いでいた。
息子が妻に命を狙われていると聞いても、大して興味を持たないが、それが原因で領地になんらかのペナルティが加えられるのは許せないだろう。
エカテリーナもそのことは理解しており、以後、ベルの命を狙うようなことはなかった。
だからといって、エカテリーナがベルを亡き者にして、ランスを次期ヴァルサ公爵にしようという野望を諦めたとは思えない。
それを踏まえて考えれば、エカテリーナからの手紙は危険極まるものであった。
ここ数年で彼女はヴァルサ公爵領で女王のようにふるまっているという。表の部下も、裏の部下も多いだろう。
ベルを呼び戻すということは、絶対の罠を仕掛け終えたということだ。
虎口に飛び込むようなものである。
ベルは立ち上がると、執事のフランツを呼んだ。
すぐに部屋に入ってきたフランツ。
この黒いフロックコートを隙なく着こなす60男こそ、幼いベルをエカテリーナの手から幾度も守り続けてきた功労者である。
今、その表情には緊張の色が見える。エカテリーナからの手紙がきたことも、その内容も彼は知っている。
主人がたった今、決断をしたことも。
「決めたよ。帰ろう」
帰らないという選択肢がないわけではない。
例えば、王国政府に働きかけて、戻れない公的な理由をつくる。
帰りたいのはやまやまだが、このような用事があるので帰ることはできない。
さすがに王国政府の公的な用事があるのならば、エカテリーナも無理強いはしてこないだろう。
だが、それでは一時しのぎにしかならない。父の容態が悪いことは間違いないのだから。
いっそう、ヴァルサ公爵の跡目を弟に譲ってしまうという手もある。
王国政府にそのことを打診し、公式にベルがヴァルサ公爵領の相続を放棄したことを宣言してもらう。
これでエカテリーナの願いもかない、ベルに危害を加えてくることはないだろう。
ベルとしては特にヴァルサ公爵になりたいと思っているわけではない。むしろ、このままクラングランで気楽に過ごしていきたい。
だからこそ、決断には時間がかかった。例えエカテリーナの牙から逃れたとしても、
ヴァルサ公爵サーベルとなる。
クラングランに戻ってくることはないだろう。
「サーベル様……」
フランツがついに口を開く。だが、ベルは笑顔でそれを封じた。
「うん、わかっている。それでもここで逃げを打つべきじゃない。私がサーベルである以上、戦う必要があるんだ。覚悟はできたよ。もちろん、殺す覚悟がね」
フランツは無言で頭を下げた。
彼はどこまでも主に従うつもりだった。例え死地にでも。
執務机についたまま、アルは傍らに立つ灰色のフロックコートの青年を、かたずを飲んで見守っていた。
ルークはアルが書いたばかりの手紙に目を通している。
「ただの冒険者ならばともかくとして、勇者として、ふさわしくはありませんね」
ルークが笑顔で言った。
手にしていた手紙をアルの前に置いて、ここと、ここと、ここが良くない、この言い回しは無礼だ、などと指摘する。
アルはため息をついた。
「ありがとう、書き直すよ」
サンストン王国からの季節の挨拶の手紙への返信である。
例えば個人的に友誼のあるアザリックからの私的な手紙ならば、ここまで苦労はしないのだが、王国としての公的な手紙の返信には気を使う。
以前はルークに代筆を頼んでいたのが、彼が1年ほど『神器カーラッド』の探索で留守にしがちだったあいだに、大変苦労させられた。
そのことを教訓に、アルはルーク頼みだった公的な物事への対処をできる限り身に着けようとしていた。
それでも4回目の書き直しともなるとさすがにうんざりとしてくる。
道場に行きたいな、と窓の方を見る。
執務室の窓からは道場が見える。
さすがに距離がありすぎて声は聞こえないが、中ではドロッターとマーキンが鍛錬をしているはずである。
基本的に朝の鍛錬は全員参加。
『太陽の剣』の冒険者仕事を早めに切り上げられた者は、夕方、鍛錬に来るようになっている。
弟子たちとの鍛錬もアルは好きなので、早く終わらせて合流したかった。
気合を入れてまっさらな紙に向き合ったところで、ノックの音が響いた。
入室をうながすと、入ってきたのはメイドのセーラである。
「ご主人様、サーベル様がいらっしゃいました」
「ベルが?」とすぐに席を立つアル。
顔が喜色に輝く。
「ただいま私の分身が東応接室にご案内しております」
分身というのはなにかの比喩ではない。
本当の分身である。
アルのメイドであることをなによりよも誇りにしているセーラは、他者とこの栄誉を分かち合う気が起こらなかった。
人手が必要ならば、と分身術を身に着けてしまったのだ。
おかげで『勇者館』を訪れた者は、まったく同じ姿をしたメイドたちを目にすることになる。
アルの姿がぼやけた。
『レベル2』に入ったのである。
それも『レベル3』に近い超高速(レベル2臨界点。これ以上速くなると通常空間の理から出てしまう)。即座に東応接室のドアの前に至った。
廊下を、セーラに案内されてベルが歩いてくる。突如、現れたアルに驚くでもない。
「いきなり訪ねて悪いな」
ベルが言った。
「もちろん、いいさ。夕食は食べてってくれるんだろう?」
「いただくよ。君の奥様方の腕がどれだけ上達したか確認したいしね」
2人して応接室に入る。
3つある応接室の中では1番狭く、こじんまりとしている。
向かい合うソファセット。
ベージュ色の壁と茶色い床。壁を飾る大きな絵画は『勇者と仲間たち』と題打たれたもので、『勇者館』をバックにアルと仲間たちの立ち姿を描いたものである。
「いい酒を持ってきたんだ。たまには一杯やろう」
ベルが言った。
「珍しいね、いいことでもあったのかい?」
「別にいいことじゃないがね。ヴァルサ公爵領に帰ることになったんだ」
アルは目を見開いた。
ベルの実家である。それがなにを意味するのか彼も知っている。
「大丈夫なのか? 義母に命を狙われているだろう?」
「父がいよいよ危ないらしい。帰って来いと手紙がきてね。無視するわけにもいかないだろう」
「それなら、俺も行くよ」
危険とわかっている場所にベルだけを行かせるわけにはいかない。
例え、彼がそう簡単におくれをとることはないとわかっていても。
「ありがたいね、『勇者アルフレッド』の護衛なんて」
「俺は本気で言ってるよ」
「知ってるよ。君が来てくれるなら心強いけどなあ」
ベルが遠くを見るような目をした。
アルは妙に不安な気分になった。
「帰ってくるんだろ?」
「いや、もう帰ってこれないだろうな」
アルは口を開きかけ、閉ざした。
そのままうつむく。
考えてみれば当たり前だ。
ベルはヴァルサ公爵の長子なのだから。公爵が死ねば跡を継ぐことになる。
いつ間にかベルとはずっと一緒にやっていくような気がしていた。
何年も何十年も。
だが、ベルにとって冒険者家業は一時のものにすぎないのだ。彼は大貴族の跡取りなのだから。
「そうか……」
アルはやっとそれだけ言えたが、声はかすれてしまった。
「この街があんまり居心地がいいんで長くなってしまったよ。本当はもう少しは早く動くべきだったんだ」
ベルの口調があまりにもいつもと変わらなかったので、アルは怒りがわいてきた。
お前は俺たちと別れて平気なのか、とそんな言葉を吐きそうになる。
「いつたつんだ?」
「4日後。いくつか仕事を君に引き継いでもいいかい? デクスト団や領政府の関係なんかだが」
「わかった。ベルほどうまくできはしないと思うけど」
「ただの監視だよ。君が目を光らせているってわかれば、変なことにはならないだろう。自分で言うのも口幅ったいが、ずいぶんと良い街になったと思う。私にとってもここは特別な場所だからね、できればこのままであってほしいよ。いつかまたこの街に住みたいなあ。君たちと一緒に」
アルはその言葉に込められた万感の思いを感じ取った。
まるでそれがはかない夢であるかのような。
ベルに対する怒りなど一瞬で霧散してしまった。
代わりに冷たいものが身内に広がっていった。
ベルは死を覚悟しているんじゃないか?
俺が思っているよりも、ずっと危険なんじゃないのか?
「やっぱり俺も行く」
アルは顔を上げると、正面からベルを見た。
「そういうわけにはいかないんだ、アル。君が動くと戦いが長引く。何年もかかるかもしれない」
ベルは説明した。
『勇者アルフレッド』が同行すれば、相手も慎重になり、アクションを起こさなくなるだろうこと。
「何年だろうが付き合うさ」
「おいおい、せっかくこんな立派な屋敷を貰ったんじゃないか。結婚もして、弟子もいる。ここが君の居場所だろ」
「友達が戦いに行くのに、じっとしていられるかよ。俺も行く。君の敵は俺がすべて倒す」
「相手は魔物じゃなく人だぜ」
「わかってるよ」
アルは今まで人を殺したことはない。
何とか殺さないようにやってきた。
それでも、もしベルに命の危険があるのなら、やるしかない。
「君に人殺しをさせるような真似できるかよ。ティナさんもマリーさんもちび子も、私も、君の剣が誰よりも気高く美しいことが誇らしいんだ。誰もに慕われる勇者はそうでないとな」
「俺の剣は戦うためのものだ。大切なものを守るために戦うためのものだ」
「だからこそ、私のために汚すべきじゃない。君は政治の道具であってはならない。君の剣は、強者と戦うために振るうべきだ。政争で人を殺すためじゃない。その一線だけは守るんだ」
アルはベルのいわんとしたことがわかった。
各国の要人から手紙がきたり式典に招待されたりするのは、『勇者アルフレッド』への警戒のあらわれなのだ。
ベルに同行し、ヴァルサ公爵家の後継者争いに加担する。
例え親友を助けるためだとしても、それは様々な人間に疑心を植え付けるだろう。
「君の『殺さずの剣』はとても大きなアドバンテージなんだよ。自分には野心がない、政治とは無縁に生きる、そういうスタンスを明確にしているからね。だからこそ、君を巻き込む気はない。いいか、例え君がどんなふうに思っても、私自身がそれを許せないんだ。もし、君が私の立場だったとしら、やはりそう思うんじゃないか?」
アルは反論できなかった。
その通りだろう。
もしもベルの立場だったら、アルは断固としてベルの協力を拒む。大切な友人だからこそ、自分のために生き方を大きく変えるような選択はさせない。
葛藤するアルをベルは優しい目で見ていた。
アルとの日々が頭に思い浮かんでくる。
本当に楽しい日々だった。
自分にこれほど輝かしい時代があるとは、ヴァルサ公爵領から逃げ出した日には思いもしなかった。
アルはわかっていないだろう。
悩み、傷つきながらも、少しずつ前に進んでいく友人が、自分にとってどれほどまぶしい存在だったか。
これから先、アルとの道が分かれていくことがどれほど、寂しく暗い気持ちにさせられているか。
それでも決着はつけなければならない。
『勇者アルフレッド』の親友であると自分を誇るためには、逃げ続けるわけにはいかないのだ。
「まあ、実際のところ、そんなに深刻になるようなことじゃないぜ。これでもティタニスの所有者『黄金の貴公子』だ。ちょっとやそっとじゃ、怪我もしない。してもすぐに治るしな」
湿った空気を振り払うように明るい口調でベルは言った。
「そもそも『レベル2』を使えるんだ。敵が千人いたって、かすり傷も負わないよ」
実際、ベルの身体能力はアルをはるかに凌駕している。
『レベル2』を使わず、ジナン術も使わなければ、近接戦闘ではアルですら苦戦するだろう。
加えてティタニスの凄まじい威力と、『レベル2』である。万一、敵に囲まれても、簡単に返り討ちにするだろう。
「結局のところ、少しナーバスになってるだけさ。さっきも言ったが、この街を離れるのは本当に寂しいんだ。それに敵は身内ときたもんだ。気が重くもなる」
「身内といったって、義理の母親だろう。血はつながっていないんだろ」
「……まあね」
ベルにしては歯切れの悪い反応であったが、アルはそこに気づかなかった。
「とにかく、余計な心配をするな。あと、落ち着いたら招待するから、遊びに来てくれ。『飛行リフト』を使えばあっという間なんだから」
それもそうだな、とアルは気が軽くなった。『飛行リフト』、あるいは『レベル2』を使えば、半日もかからずにつくだろう。
ガーラントやサンストンに比べれば近所のようなものだ。
そうだ、その気になればすぐに会いに行けるじゃないか。
「屋敷は君にやるよ。好きなように使ってくれていいし、処分してくれてもいい」
「いや、困るよ、貰っても。ここでさえ、広すぎて持て余してるんだから」
「管理人はちゃんと置いておくから、気にしなくていいぜ」
「そういう問題じゃない」
「まあ、いいじゃないか。餞別代りに受け取ってくれ」
「それなら、預かっとくよ。君がいつかまたここに住む日のためにさ」
帰宅したアルの2人の妻は、ベルが夕食をとっていくと聞くと、俄然、張りきった。
「アルっていまいち食べさせがいがないのよね。アルの方が上手いわけだし、悪い感想言わないし」とマリー。
『月の雫』で料理修業しいるが、まだまだアルにおよばないことは、自覚している。
たまには第三者の感想を聞いてみたいと思っていたのだ。
「貴族に料理を作ることになるなんて思わなかった」とティナ。
過去に貴族にひどい目にあわされた彼女は、いまだに貴族嫌いである。
それでもベルとは付き合いの長さもあって、気のおけない仲間になっていた。
ヒラヒラのエプロンをつけて2人は厨房で奮闘した。
料理の腕では今のところティナが先をいっている。なにしろ食に対する想いが強いのだ。
だが、マリーもところどころで『レベル2』を使用して、スピードで腕をカバーしている。
しかし、動き回りすぎて、ティナにぶつかった。
「マリー、うろちょろしすぎ。邪魔。『レベル2』ばっかりやっちゃダメだよ」
ティナが言った。
一度、自力で『レベル3』に入って以来、ティナも『レベル2』に入れるようになった。しかし、アルやマリーほど自在にはいかない。『空間ポケット』も使えない。
「ごめんなさい。気を付ける」
マリーは素直に謝った。
エプロンや顔に飛び散った汚れが、彼女の奮闘を物語っている。
途中、ルークとセーラがまかないを食べにやってきた。
「私の弟子の分も作っていただけませんか? 今宵が別れの晩餐となるかもしれませんので」とルークが言った。
マリーもティナもルークの弟子と聞いてすぐに思い当たらなかった。
強いていうならセーラだろうか。
ふいに、ルークの隣に黒いマントに黒装束の女性が現れた。
茜色の髪を肩のところで切りそろえている。ベルの家臣で隠密業を行っているローズだ。
「師匠、私ごときにそのような気を使わなくても」
「なに1つ教えた覚えありませんが、あなたは私の大切な弟子です。最後くらいその門出を祝わせてください。あなたの『ケツ』に対する想いはきっとこれからの人生を豊かにしてくれることでしょう」
「ありがとうございます。ところで、カザイン王国の貴族を屈服させたときの話がまだ聞けていないのですが……」
「おや、そうでしたか。それはいけませんね。気位が高く、女性を物のように扱ってきた美貌の青年貴族が、私によって物のように扱われたあのときのことを話していないとは」
などと言いながら、主人の妻たちが奮闘する厨房の片隅で猥談をする2人。
メイドのセーラは我関せずに、まかないを食べて行ってしまった。
「ああ、もう、やめてくれ。これ以上されたら、私が私ではなくなってしまう。そう泣いて懇願するベルディオを私は冷たく見下ろしました。それでいい。あなたはもはや伯爵ではなく、ただの物。私を導き入れるためのただの器に過ぎません」
「ああ、あの傲慢で平民の女をいいようにしてきたベルディオ伯爵がそんな……」
目をキラキラとさせて聞き入るローズ。
「あんたたち、ちょっと静かにしてくれないかしら」
マリーがイライラとしながら言った。
そして夕食。
ベルはアルの妻たちが作った料理に賛辞を惜しまなかった。
確かにまだ、店に出せるレベルではないものの、努力のあとが十分に見られる。
褒められてティナは満面の笑顔になったが、マリーはバツが悪そうな顔になった。実はいくつか失敗をしてしまったのだ。
夕食の席で初めてティナとマリーはベルの帰還を知らされた。
厨房でルークがそれらしいことを言っていたが、2人とも聞き流していたのだ。
「寂しくなるわね」とマリーは言った。
少女時代にクラングランを訪ねたときのことを抜かせば、まだ1年半程度しか交流がない。
それでも胸に大きな喪失感があった。
アルの大切な友達。
「でも、同じオルデン王国だよね。近いよ。簡単に会いに行けるよ」
ティナが明るい声で言った。
「その通り。ぜひ、気楽に遊びに来てほしい。ヴァルサ公爵領はカザインともクロンとも近い。それぞれの料理が味わえるよ」
おお、とティナが歓声をあげた。
そこからは主にベルが話した。
ヴァルサ公爵領の特色や公爵家のしきたりなど。
大貴族の暮らしに興味津々のマリーと、嫌な記憶を思いだして渋い顔のティナ。
アルはベルの話を聞きながらも、親友との想い出に浸っていた。
2人で魔物退治に行ったときのこと。
ガーラントの弓技大会に出場したときのこと。
どれも思い返すと楽しい想い出だった。
いつの間にか妻たちは席を外していた。ベルと2人きりで黙々とグラスを傾ける。
ベルの持ってきた高級な蒸留酒は強く、アルはすぐに酔いが回った。
「楽しかったな」
ベルが言った。
白皙の顔がほんのりと赤くなっている。アルコールで酔うことがないベルのために、アルは自分の血を数的ベルのグラスに落としている。そのせいだろう。
「ああ、楽しかった」
アルも頷いた。
「ずいぶん君に振り回されたなあ」
「アルが流されやすいからだな」
「いや、ベルが強引だからだろ」
言って笑いあう。
「あの頃の君ときたら、悩んでばかりだったな。そんな君も勇者と呼ばれ、今やカーラッドと肩を並べる大冒険者だ」
「父さんとは比べ物にならないよ。俺のやったことなんてさ……」
「アル、過ぎた謙遜は嫌味だぜ」
「でも、やっぱり父さんにはまだまだおよばない気がするよ」
「まあ、そういうものかもな」
それからまた黙々と酒を飲む。
ときどき、思いだしたように話をして、笑い合う。
そんな風にして、いつ間にか夜更けになっていた。
ベルが持参した蒸留酒はとっくに終わり、別の蒸留酒を封を開けている。
アルはかなり酔っており、美貌の友人を見る目は完全に酔眼となっている。
ベルもそれは同様で、しっかりと酔ってしまった。アルコールと血とのブレンドがかなり効くらしい。
「なあ、ベル」
「なんだ?」
「俺、寂しいよ」
「……馬鹿だな、君は」
翌朝、マリーは食堂でテーブルに突っ伏して眠るアルと、椅子にだらんともたれかかって眠るベルを見つけた。
酒気が満ち満ちていた。
男たちのあり様にあきれながらも、胸に詰まるものがあって、目が潤んだ。
「寝室へお連れしてもよろしいでしょうか?」
厨房から出てきたセーラが言った。
「今日は朝の鍛錬は無理そうだものね。お願い」
2人目のセーラがアルの背中から飛び出してきた。
シャツに化けていたらしい。
そのセーラがさっとアルに触れると、アルは消えた。『空間ポケット』に放り込んだのだ。
同様にもう1人のセーラがベルを『空間ポケット』に放り込む。
2人のセーラは同時にマリーに頭を下げると、食堂を出ていった。
入れ違いに3人目のセーラが入ってきて食堂を片付け始める。
マリーはすっかり慣れてしまったが、第三者が見ればかなり異様な光景である。
セーラを手伝って食堂を片付けていると(セーラは露骨に嫌がったが)、ティナが起きてきた。
「おはよう、早いじゃない」
「アルの代わりに朝の鍛錬にいかないと」
「ああ、そうね。それなら朝食は私だけで作らないとね」
アルの弟子たちに稽古をつけるのは、マリーではできない。
なにしろ戦闘能力は高いが、戦闘技術は水神の元の宿主であるサッズのスカウト能力だけである。
剣もクロスボウも扱えるものの、アルの弟子たちに教えられるほどではない。
ようし、と腕まくりをして厨房に入るマリー。
ティナはあくびをしながら、シャワーを浴びに行った。
マリーの奮闘の甲斐あって、朝食は無事に完成した。
アルを起こしにいったものの、彼はぐったりとしたまま起きなかった。寝息も酒臭い。
一方、セーラに起こされたベルはさわやかな笑顔を振りまいて現れた。二日酔いなどまったくないようだ。
道場から戻ったティナとマリーとベルの3人での朝食。
ティナも鍛錬のあとだというのに汗ひとつかいていない。
「昨夜はずいぶんとお酒を飲んだみたいですね」
「アルと飲む酒がうまくて、つい、飲み過ぎたよ。醜態をさらしてしまったね」
「いえ、男っていいなって、思いました」
「なあに、それ?」
ティナが興味津々とした顔で言った。
マリーは自分が食堂に入ったときの様子を話した。
「なんで、それで男っていいなって、なるの?」
ティナが首をかしげる。
「なんでって言われても困るけど。なんか、ジンとくるものがあったのよ」
「それってルークとかローズが好きな感じのやつ?」
「断じて違います」
そんな会話をベルは微笑ましい気持ちで聞いていた。
アルの2人の妻は驚くほど仲が良い。
どちらも自然体で、無理をしていないのがわかる。
きっと互いが互いを必要としていることをよくわかっているのだろう。自分の足りない部分を補完してくれる存在であることを。
朝食後、ベルはアルの妻たちに丁重に礼を言うと、『勇者館』をあとにした。
そのまま魔法学院に足を伸ばす。
正門の前の小屋でエーテルを呼び出す。
通りかかるマントにとんがり帽子の魔法使い、特に女性たちがベルをじろじろと見ていく。
ベルは彼女たちの熱っぽい視線などまったく気にすることなく(中年女性にだけは笑顔を向けた)学院を囲う黒い壁に背中をあずけて待った。
エーテルはすぐにやってきた。
目にクマがあるところを見ると、徹夜明けなのかもしれない。
「珍しいですね。サーベル様が私を訪ねてくるなんて」
「これが最初で最後だろう」
「帰ることになったそうですね」
「お互い、清々するな」
「そうですね」
エーテルはニヤリと邪悪な笑みを浮かべた。
ベルは首から下げているネックレスを外した。
金の鎖の先には白銀の板がついている。
光を受けて虹色の光彩を放つ。
伝言板だ。
「こいつを返しておこうと思ってね。持っているとついつい使ってしまいそうだ。アルは受け取らないだろうからな」
どんなことになってもアルに助けを求めるわけにはいかない。
ベルはそう決意していた。
エーテルならば自分の気持ちを理解し、その通りにしてくれるだろう。
「わかりました。アル様にはこれをお預かりしたことは黙っています」
エーテルはベルからネックレスを受け取った。
右手の人差し指で、軽く宙を叩く。
すると、宙に小さな青く輝く魔法陣が浮かび、閃光を発した。
青い円形の光だけが残る。
エーテルはそこにネックレスを放り込んだ。エーテル流の『空間ポケット』である。それを1度閉じると、今度は別の『空間ポケット』を作る。そこに腕を突っ込んだ。
「餞別代りにこちらをどうぞ」
言って『空間ポケット』から出した青い鶏卵のようなものを渡す。
一見すると魔物の卵のようだ。
「なんだ、これは?」
ベルは手の平に乗せられた青い鶏卵を眺めた。
魔物の卵とは明らかに違う。
だが、生きているようだ。
「魔法卵と私は呼んでいます。魔法生命の一種です。まだ試作段階ですが、1つだけ魔法を閉じ込めておくことができます。『転移』の魔法を閉じ込めありますから、緊急事態に使ってください。強い衝撃を与えれば割れる仕掛けです。石板と違って魔法使いでなくとも使えますよ。ゆくゆくは、なにか言葉を唱えて発動するようにしようと思っています」
「魔法を? これに」
ベルは驚いた。
「1回こっきりの使い捨てです。なにかの役に立つでしょう」
「これは大発明じゃないのか?」
魔法使いじゃなくても使えるというのが素晴らしい。
この魔法卵をきっかけに、一般人に魔法が普及していくかもしれない。
「クレア様はそうおっしゃっていますが、どうでしょうか」
首をかしげるエーテル。
「それほど大したものではないと思いますが」
ベルはつくづくと、エーテルを見た。
灰色のマントに灰色のとんがり帽子もすっかり様になっている。
きっと、この娘は魔法使い社会を大きく変えていく存在になるだろう。
いや、ひょっとしたら世界そのものを。
エーテルがじいっとベルを見つめる。
相変わらずの無表情である。
付き合いの長いベルは彼女の無表情に多くの表情があることを知っている。
今しているのは心配そうな顔。
「『勇者アルフレッド』は参戦できなくとも、『天才魔法少女』は参戦しても構わないと思います」
ベルは驚いた。
エーテルは自分もついていってもいい、と言っているのだ。
「そんな暇はあるのか。忙しいんだろう?」
「なんとでもしますよ」
「ありがたい申し出だが遠慮しておくよ」
「そうですか」
「お前には別のことを頼みたいからな。もし、私に何事かが起こって、アルが感情的になったら、お前が抑えてくれ」
暗に自分が殺されるようなことがあったら、アルが復讐するのをとめてくれ、と言ったのだ。
エーテルならばこれで十分通じるだろう。
「そういう不吉な頼み事は受けられません」
「いや、お前はちゃんとやってくれるさ」
エーテルはそれには答えなかった。
「アルに復讐なんかは似合わない。そうだろ?」
しばしの沈黙。やがて、エーテルがそれを破った。
「わかりました。アル様が復讐する前に、私がすべてを破壊します。それなら構わないでしょう?」
ベルは一瞬、あっけにとられた。
笑いがこみあげてきた。
手を顔に当てて笑う。
「笑うような場面ではないと思いますけど」
ベルは笑いを顔に残したまま、エーテルを見つめた。
ちび子、ちび子と呼んでいたが、出会った頃と比べれば、ずいぶん背も伸びた。
そしてそれ以上に内面が成長している。
「あと30年もすれば私好みの美女になるかもしれないな」
「それは面白そうですね。サーベル様から口説かれるのは実に気分が良さそうです。そのときを楽しみにしていますよ」
エーテルがベルに手を差し出した。
ベルはそれを握った。
「またな、エーテル」
「はい、必ずまたお会いしましょう」




