疾走するベビーカーを止めろ!!!!!
「きゃああああああああああ!!!! 私の赤ちゃんを乗せたベビーカーが坂を転がっていくわー!!!! 誰か助けてー!」
見ろ!
今重力に引かれて傾斜を下らんとする漆黒の乳母車の姿を!
不用心な母親が手を離した隙に前輪と後輪が回転を始め、気づいた時には地獄への足を一歩踏み出していた!
なぜ見ていなかったと母親を責めるの止めるべきだ! 私には私の、君には君の事情があるように、母親には母親の事情があったのだ。恐らく。多分。きっと!
さて! 問題はこれから歩道最速伝説を叩き出そうとするプロジェクトBの激走をいかに止めるかだが!
まず前提として、商店街で買い物をしていたおじちゃんやおばちゃん、更には魚屋さんのオジサンや八百屋のおばさん、ヘッドホンをつけて普段反抗期バリバリの高校生のお兄ちゃんまでもが血相を変えて飛び掛からんとしたが遅く、ベビーカーは坂を下り始めてしまったこと!
つまり疾走するベビーカーと同じスロープへ身を踊り出せるものでなければ、誰も止めることはできないのである!
あ! 今新たな挑戦者が現れた!
自転車だ! 自転車に乗った女子高生が太陽を遮って宙に踊り出し、そのまま乳母車を追い始めた!
なんという勇気! 人間は捨てたものではない。天晴! 快晴! その度胸!
幼い子供を助けたいと言う慈愛を胸に秘めた若き聖戦士は今、ペダルを漕ぎ斜面を転げ落ちるという恐怖に耐える為般若の顔をしてベビーカーを追い始めた!
一人だけか? たったの一人だけしか希望はいないのか?
そんなことはない!
勇者に続いて、どこから来たのかスキージャンパーが無謀にも二つの細い板でコンクリートの上を滑走していくではないか!
上体を折りたたみ、風による抵抗を極限まで抑えた彼が、サングラスの奥に恐怖を隠しながらも追従してきた!
さらになんと中型バイクまでもが名乗りを上げ、その向こうでは時空を超えて鎧武者を背負う馬までもが興奮を叫びながら蹄を鳴らして駆け巡るではないか! ここは源平合戦ではないぞ! 蹄大丈夫か!?
しかし一向にベビーカーの勢いは止まらない! 止まるところをしらない! むしろ加速していく! 誰も追いつけない! 般若の顔をしてペダルを漕ぎ続けるセーラー服の女子高生も、タイツに身を包んだジャンパーのお兄さんも、影の薄いバイク乗りも、時空を超越した勇ましい馬も、誰もが追い付けない!
誰か! 誰かいないのか!
来た!地上がダメなら今度は空から来た!
あれは一体なんだ! ヘリだ! ヘリコプターだ!
近くで取材していた記者達が報道に徹するという自らの職務を投げ出してたった一人の幼子をすくいに来たのだ!
しかしヘリは動きが重い! ベビーカーは無情にも抜き去り、女子高生達共々ヘリを抜き去ってしまった!
もういないのか! いやいる! あれは小さい! ドローンだ! しかしドローンでは小さすぎる! 彼もまた、いや彼女かもしれない。彼彼女もまた、ただ見ていることしかできない!
空を飛ぶモノには荷が重すぎるのではないか? 誰もがそれを感じ始めたその時!
飛行機だ! F-14だ! 思いつきで登場させた戦闘機が斜面に並行して空中を切り裂き飛んでくる! 衝撃波とか大丈夫か!? 大丈夫だ! ベビーカーが下る道の脇には何も建物が無く殺風景な景色が広がっている! そんなバカな! いやしかしある! あるのだから仕方ないのだ!
なんだ!? 空間が捻れた! なんと異世界からドラゴンが参戦した! いいやつか!? 悪い奴か!? 全身を赤く染めたドラゴンは、たった一人奈落の底へ爆走する黒い一点を空から認めると、咆哮を携えて襲いかかり始めた! どうする! いい奴ならそのまま頼みたいところだが悪い奴ならドラゴンを遠ざけなければならない! いけ戦闘機! ここは任せた!
構造も良く知らないF-14が迎撃を命じられて泣く泣く乳母車を視界から外し、異世界の脅威に照準を合わせてドンパチをやり始めてしまったことで空からの救助者はいなくなってしまった。
まずい! では誰なら止められるのか? ベビーカーはもう車輪から火花をバリバリ散らして限界以上の速度を叩き出している。放っておくと余りの加速に地球を飛び出して宇宙の果てにスペースラナウェイしてしまうか、空と海の狭間に突っ込んで昆虫型メカと戦ってしまうかもしれない! 例えが古い!では最近流行りのMMORPGの世界にでも行かせてあげようか!
そんなことはどうでもいいことであった! そうこうしているうちに地面が丸みを帯び始め、宇宙を目指す滑走路を自然に作り上げた! 想像出来るか! 厳しいなら青いハリネズミが超音速で走り抜けるリング状の道をこう途中で切り上げた感じにでも思って頂ければ十分である!
さてこれで赤ちゃんは宇宙に遺憾ながら追放される可能性が高まってしまった! もう誰もいないのか! 自転車は遥か遠く! 空にはドローンとヘリしかおらず、もう役に立たない!
なんと! 空が瞬いた! そうか! 宇宙だ! 宇宙から逆に来てくれれば乳母車との接触は確かに可能だ!
あれは! 鉄道だ! 岩手県が生んだ素晴らしき空想の産物! しかし手が無い! すれ違うだけすれ違って後は汽笛を鳴らしながら夜空に返って行くオチしか見えない! それはあんまりだ!
他には!? いる! いっぱいいる! 宇宙船や海賊船、コロニーや巨人までいる! いや待て! コロニーはさすがにやばくないか!? 乳母車一つでコロニーを押し返せるとでも思っているのだろうか!? やってみなければわからないがやったら確実に後悔しそうだからここはお引き取り願おう! というわけで巨人とコロニーはどこかへ去って行った!
ついに今!乳母車が陸路を離れて空中を一直線に跳び上がった!
ああ! 宇宙船や海賊船も乳母車を止められる手なんか持っていない!
ジュール・ベルヌは言った!「想像できるならなんでもできるよ」。そんなことは! そんなことは!!!
突き抜けていった乳母車はそのまま大気圏で空気と摩擦による熱を何事も無かったかのように切り裂いて真空の向こうへ出てしまった!
終わった! 宇宙空間でサッカーボールを蹴るととんでもない速度で走り抜けてしまうと言う話を聞いたことがある! デブリもいっぱい超速度で走り回っていると聞く! 危険だ! でももう手が無い! 赤ちゃんを乗せた乳母車はこのまま宇宙の果てまで行ってしまうのか!? それともブラックホールに飲み込まれてしまうのか!? 未来への可能性をふんだんに秘めた可愛いあどけない命が、こんな形で一人さびしい結末を迎えてしまってもいいのだろうか!?
その時! 不思議なことが起こった!
ああ! この呪文を唱えれば何か起こると思ったけれどそんなことはない! ごめんね赤ちゃん! 言葉がわからないから笑ってるけどもし理解してたらきっと怒るね!
誰も止められない! いや、止められる! 言霊を信じろ!
しばらく見守っていると乳母車は彗星の如く勢いをつけて木星へ到達寸前まで来ていた。はっ! イイコト思いついた! 重力を利用したジャンプ方法があると聞いたことがある! 引力に身を任せてある一点でロケットを切り離せば速度を着けて重力圏内から逃れられると! これを使おう! あっ! 乳母車にはロケットが無い! まあいい! やろう! やるしかない!
乳母車はそのまま何とかベルト(たしかそんな感じ)を通過して、軌道に乗った! さて後はタイミングよく戻らせるだけだ!
どうもどらせるか? 考えた時、赤ちゃんを哀れに思った全宇宙の意思が見えない慈愛の手を差し伸べた!
ついに世界を見守る意思さえも味方に付いてくれた! これで勝てる!
木星を包み込むように軌道を描いて飛び続けるベビーカーが、ある一点を通過しようとした時、なんと! 昔々いちゃつき過ぎてばらばらにされてしまった織姫と彦星が天の川サイクロンで乳母車の軌道を変えた! 無茶だ! でもなんかいいからそのまま行こう!
そして見えざる手が乳母車周辺の時空を曲げた! 亜空間飛行! SFでおなじみの亜空間を行けば近道フッフーが技術もへったくれもないただの量産型乳母車の侵入を許し、気づいた時には目の前に地球が現れた!
守りたくなるような青い宝石が暗い世界にぽっかりと浮かんでいる。赤ん坊は無邪気に手を叩きながらその奇跡を目に映して微笑んだ。君はきっと忘れてしまうだろう。三歳になったら一度、前世からの記憶も何もかもリセットされると聞く。覚えていたら幸せである。心豊かでありますように!
大気圏! 亜空間を抜けた衝撃でスピードが全くなくなってしまった乳母車は引力に引き込まれて燃え盛る大気の層へと突っ込んでいく! 空気!? 加護がある! 摩擦!? 問題無かった! 騒いでゴメン!
そして海が眼下に広がった。
船がいくつも、赤ん坊の帰還を待っている。空母でさえも、人型ロボットも、光の巨人も、羽を生やした鳥人や悪魔の御仁でさえ、一個の限りある命が帰って来たことに微笑を隠せない。
素晴らしい世界だ! しかし母親の下へ還すまでは物語は終わらない!
良い話にしたいからここら辺でどうにか母親の元まで送り返そう!
そんなことを考えていたら、何と太陽が光の道を築き、ベビーカーを空中で走らせる道を作り出してくれたではないか!
ありがとう太陽! 代表して乳母車を押すのは異世界からやってきたみんなの聖母・セイレーンだった! ああ! 赤ちゃんが男の子だったら将来苦労するだろう! こんなにきれいなお姉さんに微笑を投げかけられながら母親の下へ帰ることになるのだから! 女の子の場合? 最近は認められてきているからきっと心配することはないさ!
「こっちだよー!」
あれは母親だ! 手を振って叫んでいる!
ふわりと着地した乳母車は自然とセイレーンの手を離れて母親の元まで戻ってきた。
抱き上げる母親! 笑う赤ちゃん! 見る者すべてがほっこりした顔で周囲を取り巻き、いまここに幸せの空間が作り上げられた!
ありがとう皆! ありがとう生きとし生ける者達よ!
やはり命を繋ぐ想いは素晴らしいものであった!!!!!