あなたはやっぱり鈍感です
鉄筋2階建ての古いボクシングジムでは、ミットを叩く乾いた音が、暮れ始めた静かな商店街とは対照的に、激しく響いていた。
奈津子はストップウォッチを手に、リング上を見上げていた。リングと手元を交互に見ながら、デジタル表示が3:00を示すと、横の机に置かれたゴングを木槌で叩いた。
金音にしては鈍い音がジム内に響く。
「よっし。明後日試合だし、今日はこれぐらいにしておこう」
白髪坊主頭の木下伝次郎がリングサイドから声をかけた。
「はい」
亮が会長である伝次郎に言葉を返す。そして、目の前の筋肉もりもりで真っ黒に日焼けした男にも頭を下げた。
「ヤマさん。ありがとうございました」
「おうっ、お疲れ」
いかつい体にそり上げられた頭の男、ヤマさんの厳しい表情がゆるんだ。
少し前にジムに、ボクシングを習いたい、と珍しく人がやってきたことがあった。その時、真顔で奈津子にそっと尋ねてきたことがあった――坊主はジムのきまりなのですか。
別にきまりなどなく、たまたま、そうなっているだけなのだが……。それにしても、坊主だけというのは本当に印象がよくない。
それに、亮は置いとくとしても、伝次郎は小柄で70を過ぎているにも関わらず威圧感が溢れ出ているし、ヤマさんは悪役レスラーそのものといった感じだ。40前後のはずだが、ムキムキの肉体は若手バリバリのレスラーのようである。
そのせいかどうかは別にして、ジムには会長とトレーナー、そして、ボクサーが1人という現状が続いている。
奈津子は思う――私の魅力をもってしても、こればかりはどうにもこうにも……。
「亮、乗って」
リングサイドにいた奈津子は、ジムのすみにある計量器を指差した。
亮がリングを下り、近づいてきた。
奈津子はグローブをはずしてあげて、大きな天秤のような計量器の裏にあるパイプ椅子に腰かけた。針に視線を向けると自然と顔が引きつっていく。
亮も顔を強張らせながら計量器を挟んで向かいに立っている。
「いいよ」
声をかけると亮は大きく深呼吸をし、静かに台に上がった。奈津子がオモリを動かす。
「よっし、オッケー」奈津子は表情をゆるめた。
亮はふうーっと息を吐き出している。リングサイドでは伝次郎も同じように息を吐き出し、軽くうなずいてジムの奥へ入っていった。その後ろをホッとした表情のヤマさんが続いた。
「亮、これで明日の計量は大丈夫そうね」
「あぁ、バッチリだよ」
「さすが、明子おばちゃん。食事の管理はバッチリだね」
「まっ、そこだけは感謝だよ。ウザいおばちゃんだけど」
亮が微笑み、奈津子も微笑んだ。
奈津子がリングの上の拭き掃除をしていると、着替えを終えたヤマさんが戻ってきた。
ヤマさんは出入り口ドアの前で足を止めると、いつものようにニッコリ微笑んだ。普段は恐い顔のヤマさんが笑顔になると太い眉がハの字になり、ブサカワイイ犬のようで愛らしい。
ヤマさんはトレーナーの他にも、漁港から各店に魚を配送する仕事をしている。そちらが本業で、こちらはボランティアといった感じだ。貧乏ジムの孫娘の奈津子としては、本当に申し訳なさでいっぱいだった。
「じゃー、なっちゃん。お先に」
笑顔で片手をあげると、奈津子の「お疲れ様でした」を背にドアの向こうへと消えていった。
その後、すぐに亮も現れ、箒を手にすると、リング周辺の掃除をしながら、ぼそりとつぶやくように声をかけてきた。
「いつも仕事が終わると、すぐ帰ってきて練習を手伝ってもらって悪いな」
普段、奈津子は役所に勤め、帰ってくると亮の練習を毎日のように手伝っていた。
「いいの! 好きだから」
思わず、そう答えていた。思ったより大きな声が出てしまい、亮が少し驚いたような顔でリング上を見上げている。
そんな亮と目が合ってしまった。見つめてしまっていた自分に驚くとともに、胸が波を打っている。
奈津子は視線をはずし、握りしめているモップを動かした。そして、発してしまった言葉の恥ずかしさに気付き、急いで言葉を足した。
「ほっ、ほっ、ほら、ボクシング見るの大好きだから」
「あぁ、そうだな。昔から大好きだもんな」
いつものひょうひょうとした口調で、箒を動かしながら亮は言葉を発した。
「そっ、そっ、そうよ、ボクシングが大好きなのよ」
奈津子の様子をなど気にすることもなく、手際良く埃を集め、塵取りに納めている。その様子にホッとするとともに、寂しさを感じた。
「よーし、終わった。じゃあ、そろそろ帰るよ」
亮はさっさと道具をかたし、ジムの出口へと向かっていく。そして、ドアを開けたところで振り返った。
「奈津子。明日の朝のロードワーク、砂浜を走りたいから車で海まで乗せていって欲しんだけど」
「えぇー。なんで突然、砂浜なわけ? それに明日の朝はすぐに計量に行かなきゃいけないし、時間もないし、走りたいならいつものところを軽く走ればいいんじゃない?」
「でも、なんか砂の上が走りたいから。計量に行く前にちょっとだけだから、頼むよ」
「えぇー、でも……」
躊躇う奈津子の言葉をさえぎるように
「よろしく」と後向きで手を振りながらドアの向こうに消えて行ってしまった。
「もーう!」
奈津子の怒鳴り声とともにジムの明かりが消えた。




