これは渡す側にとってプラチナチケットです
駅の2階にある改札を抜けると、ほとんどの人が西口階段へと向かい、東口階段に向かう人は、ほんの数人である。
街の西側は20年程前から大手不動産会社によって開発され、駅前には大型スーパーや家電量販店、ドラッグストアーなどがあり、奥へと向かって住宅街が広がっている。
そして、その住宅街の中央には大きな貯水池を中心とした総合公園がある。その公園の中央広場が、あの祭りが行われた公園だった。
一方、東側は役所や警察、郵便局なども西側に移ってしまい、どんどん寂しくなってきていた。今や古い街並みが取り残されているだけだった。
そんな寂れゆく東口駅前にあるのが立見商店街である。
駅の階段を下りてすぐのところに70代夫婦の文房具店があり、その向かいが亮の両親が経営するからあげ専門店、数件の空き店舗と自治会館を挟んで淳史の家である池田洋品店、斜め向かいに靴店、コインパーキングを挟んで商店街の一番端で街道に面した木下ボクシングジムという商店街と呼ぶには寂しい状況になってしまっていた。
やっと日は沈みかけたが暑さはあいかわらずだ。そんな中、原付バイクが悲鳴のようなエンジン音をあげながら、からあげ専門店【ながい】の前にやってきた。
店は1畳ほどのカウンターで販売する形になっており、その奥が6畳ほどの調理場になっている。また、その奥には、戸で仕切られ一段高くなった8畳ほどの居間がある。
「あれ、亮。めずらしく店番してるんだ」
カウンターで、からあげを買ってくれたお客さんを見送ると、そんな声が聞えてきた。
淳史が大きな頭にちょこんとヘルメットを乗せ、原付バイクに跨っている。後ろには大きな箱のような荷台があり、小さなバイクがまったくもって窮屈そうだ。
プロボクサーである亮は、普段は朝や夕方はジムで練習し、昼間も無口な父親の大作とともに店の奥で仕込みをしていることが多いので、店番に立つことはほとんどない。店番は、おしゃべり好きな母親明子が担当するのが通常だった。
「あぁ、かあちゃんが朝になって急に、映画のタダ券が今日までだ、とか何とか言って飛び出ていっちゃったからさ。仕方なく俺がってわけよ。淳史はクリーニングの配達?」
「ちょっくら西(西口の住宅街)まで」
「大変だな。洋服屋の他にもクリーニングまで」
「しょうがないっしょ! 洋服を売っていてもなかなか売れなきゃ、違うこともしていかなきゃ。それにクリーニングも、こっちで待っているだけじゃだめだし、来なけりゃこっちからいくべし」握りこぶしを作って見せた。そして、「じゃっ、ひと仕事してくるよ」と言ってエンジンを吹かした。
そんな淳史に亮は「バイクが泣いてるぞ」と声を飛ばした。
淳史はフンッと鼻で笑うと片手をあげ走り去って行った。
その姿が、小さな自転車に乗るサーカスのくまさんのように見え、何だか可笑しくて、いつも微笑んでしまう。
「マーマー、からあげあったよ」
突然、そんな声が聞え、店の庇の下に大きめの帽子をかぶった男の子が現れた。
上から覗くように見ると、帽子のツバで顔全体が隠れてしまっている。
男の子は帽子のサイズが合わず、ずれてきてしまうのか、ツバを押し上げるようにして、外に向かって声を張り上げている。
ここ【ながい】は大作が作り出す特製ダレでつけこまれた肉を、からっと揚げた食感と味が評判で常連客も多く、夕方には売り切れることもあった。今日も残りは6個ほどになっていた。
「あぁ、本当だ。よかったね」
白い半袖の襟付きシャツに、淡いブルーの長丈スカートをはいた女性が小走りにやってきた。黒髪が後ろで束ねられている。
庇の下に入ってきた女性は「暑いですね」と言いながら、綺麗にたたまれたハンカチを額にあてていた。そして、ハンカチを持っていた手を下にさげると、顔を上げた。
ドン、という感覚とともに胸が跳ねた。心臓が和太鼓のように音を打ち鳴らし始めた。和太鼓が作り出す血液が上へ上へとのぼっていく。
4、5歳の子供がいるということは、30前後くらいだと思うのだが、見た目は名門女子大に通うお嬢様といった感じである。そんな中にも学生にはない落ち着いた佇まいと、ほんわかとした優しい雰囲気に包まれている。控えめながら微笑む姿が輝きまくっている。
和太鼓の乱れ打ちに血液が溢れ、頭がボーッとしてくる。
「コラッ」
突然の怒鳴り声で、和太鼓祭りから連れ戻された。
「あれ? かあちゃん」
「かあちゃんじゃないでしょ。ボケーッとして。お客さん、残り6つ全部買ってくださるってよ」
いつもより少しオシャレした明子が女性の横に立っていた。
「あっ、すいません」
慌てて、からあげを包み始めた。
「ほんと、すいませんね。ボケっとした息子で」
「じゃあ、いつも話しているボクシングやっているっていう、あの……」
「そう、ボクシングやっている時はキビキビしてるんだけど、普段はボサーッとしてるのよ」
明子は文句を言いながも、微笑んでいる。
「ママ、パンチパンチでしょ」
男の子が女性を見上げ右、左とかわいいコブシを突き出した。女性は「そうよ」と男の子をみて優しく微笑んだ。
「はい、からあげ6つです」
亮は女性を見つめながら、包みを手にした。隣の男の子が帽子のツバを横にずらし、亮を見上げてきた。
「あっ、くまさん!」
男の子がニッコリ微笑みながら言った。
「くまさん……?」亮はそう呟きながら、見上げてくる男の子の笑顔をじーっと見ていると「あっ」と気付いた。「えーっと、そうだ。タッくんだったよね」
亮の言葉に満面の笑みで拓也がうなずいた。
「くまさんって、お祭りの?」
女性がしゃがみ、拓也に聞いた。
「うん。くろ・くろ・くまさんに、なるまえだよ」
「なるまえ?」
女性が尋ねると拓也は自慢げに胸を張り、笑顔で「そうだよ! くろ・くろ・くまさんは〝わるもの〟とたたかうまえは、〝おにーちゃん〟なんだよね?」
同意を求めるように、まっすぐな視線を送ってきた。
「おっ、おっ、おう。そうだよ」
気恥かしさと嬉しさで戸惑いながら、そう答えた。
女性が笑顔で拓也に向かって軽くうなずき、立ちあがった。そして、亮に微笑みながら、「じゃー、スーパーヒーローだ」
「スーパーヒーロー? 全然そんなんじゃ」
微笑みながら言われると、また、和太鼓祭りが……。
「すごかったんですよ。私が仕事から帰ってきたら部屋の中で、この子と真衣がくまさんの話で大盛り上がりしていたんですよ」
「まい?」
「わたしの妹で、高校の夏休みで遊びに来ていて、この子に付き添って観にいってもらっていたんです」
タックルしてきた少女が浮かんだ。
「あっ、あの元気な人!」
「そうだ。ごめんなさい、あの子あわてん坊なのであなたに……」
「いえいえ、全然」
亮は微笑みながら答えた。ふと、頭に浮かぶ日焼けした少女と、夏のこの時期でも真っ白な肌をしている女性が姉妹であることが、何だかピンとこなかった。
でも、スラリと上に伸びた体型や、笑った時にスーッと細くなり三日月のようになる目はそっくりな気もするなどと、どうでもいいことを思い浮かべていた。
「それに保育園でも、くまさん大人気なんだよね。タッくん?」
そう言う女性に、拓也は笑顔いっぱいでうなずき返している。
「なんか照れますね」と言った亮に拓也が「ねぇー、くまさん。パンチパンチやるの?」かわいいコブシを交互につきだしてきた。
「そうよ、タッくん。今度の日曜日にパンチパンチするのよ」
亮が答える前に、明子が拓也のまねをして言った。
女性が「試合ですか?」と微笑んできた。
「えぇ、まぁー」照れまくりだ。
「みたーい! ママみたーい」
拓也がそう言うと女性が困り顔になった。
それを見て明子が「亮、チケットまだあったでしょ?」
「ちょ、ちょっと待ってて」慌てて店の奥へと駆けこんだ。
居間では仕事を終えた大作が、お茶をすすりながら、夕刊を見ていた。傍らのラジオから、知らない曲が流れている。
突然、飛び込んできた亮に一瞬顔を上げたが、すぐに視線は放れていった。
ガタゴトと音を立てながら戸棚をひっくり返していても、何か言ってくることもない。
亮は慌てて戻ると「今度の日曜、夜の6時からなんですが」と、マラソンでもしてきたわけでもないのに、息を切らしながら言った。
「夜なら植村さんも薬局のほう大丈夫よね?」明子の絶妙な問いかけが続いた。
後で聞いた話によると、彼女は薬剤師として働いているそうだ。
女性は「ええ夜なら、でも……」とちょっと困惑の表情を浮かべた。
「ママ! いきたいよー」拓也が体を揺すって訴えた。本気でいきたそうにしている拓也を見て「じゃー」と女性は苦笑いしながら言った。
亮は「よっしゃー」と小声で呟いた後、「タッくんは一人っ子ですか?」と聞いた。そして、はい、とうなずく女性に3枚のチケットを差し出した。
「あの、こんなに?」
「えぇ、家族3人分で」
「あの、この子と私の2枚で……」
女性は苦笑いしながら遠慮がちに言った。
「えっ」
「いいのっ」
明子がカウンター越しに顔を近づけてきて、小声で言うと、2枚のチケットを亮の手から奪い取るようにし、その後、微笑みながら優しく女性に渡した。
これも後から聞いたことだが、夫はいなくて2人暮らしということだった。何故そうなったのか、と聞くと、さぁ、と明子は首を傾げていた。
おしゃべり好きの明子だが、踏み込みを見分ける線引きは、しっかりしている。その辺りは20年以上カウンターに立ち続けて身につけたのか、それとも持ち合わせた性格が成せる業なのか、どうちらしても客商売にピッタリであることは間違いない。
「あの、チケットおいくらですか?」
そう言う女性に亮は「あっ、ちょっと」と言い、カウンターに置かれたままのからあげ包みを掴み、女性に差出して言った。「480円です」
これは、からあげ6つの値段だ。
一瞬の間の後、女性は「ありがとう」と笑顔で言い、硬貨を亮の手の平に置いた。
「まいど!」
自然と声が大きく弾んだ。
女性が受け取ったチケットに目を向けている。
「永井亮さん?」
「永井亮です」胸を張って言った後、頭を下げた。
女性も「植村美貴です」と頭を下げた。それを見た拓也が美貴の横で、かわいい声で「うえむらたくやです」とまねして頭を下げた。
さらに明子が2人の横に並び、すかさず拓也をマネたかわいい声で言った。
「ながい あきこです」
「そのオバさんは、嫌っていうほど知ってるよ!」
亮がツッコミを入れると、4人に笑顔が広がった。
「あっ、そうだ植村さん。日曜日夕方5時にここへ来られる?」明子が言った。
「えぇ……」
戸惑う美貴に、明子は、
「そしたら5時にここに来てもらっていい? ほら、あっちの旧道沿いにマイクロバスを止めて置くから一緒にいきましょ」
商店街を抜けるとぶつかる街道を指差した。
かつてはこの街道も街の中心道路であり、役所や銀行、郵便局などもあり、車の往来も激しかった。しかし、今では街の西側に大きな幹線道路が通り、街の公的機関や銀行、郵便局も西側に移ってしまった。そして、東側のこの街道はすっかり交通量も減り、〝旧道〟と呼ばれるようになっていた。
「いいんですか? 急に私たちがお邪魔しっちゃって。ご迷惑じゃないですか?」
「迷惑もなにも近所の数人が一応、応援団ってことで行くだけだから気を遣わなくて大丈夫よ」
「そうですか……それじゃ、すいませんけど、よろしくお願いします」
美貴が遠慮がちに頭を下げた。
「亮、かわいくて頼もしい」明子は拓也の頭をなで、その後、顔を美貴に向けて微笑みながら、亮に対し「応援団が2人も増えたね」
「あぁ」
亮はあふれる喜びに踊りだしたい気持ちを内に秘めながら答えた。
カウンターから外に出た亮は、傾き始めた陽の中、手をつなぎ楽しそうに帰っていく2人を微笑みながら眺めていた。
パシッ!
乾いた音が亮の坊主頭から鳴った。
「亮! 何ニヤニヤしているの」
「いってな。それよりかあーちゃん、帰り早かったじゃん」
「やっぱりタダ券の映画はだめね、面白くないったらありゃしない。途中で帰ってきちゃった。それでほら」
鞄からレンタルビデオ店の入れ物をとり出し、「韓流ドラマのDVD借りてきちゃった」と言い、ニコニコしながらカウンターの横にある戸から店の奥へと入っていった。
そんな姿を見送ると、赤く染まる空を見上げ、両手を上げて伸びをした。そして「やったるで!」と叫び、シャドウボクシングを始めた。
店の奥から「大きな声だして、近所迷惑よ!」と明子の怒鳴り声が聞こえてきた。