辛いです 苦しいです 悲しいです
奈津子はすぐに書類が置かれた長机へと駆け寄った。手に取ったのは数枚の用紙で、細かい文字がぎっしり書き込まれている。
男性はそのタイミングを見計らったように、
「契約書のコピーです。細かくいろいろ書いてありますが、特に目を通していただきたい箇所には、マーカーで線を引いときましたので、そこだけ読んでもらえれば、内容は理解していただけると思います」
銀行員のような口調で、あくまでも丁寧に声をかけてきた。
奈津子はその箇所をさがして、書類に視線を落とした。一枚目には何もない。すぐに次のものに。
同じようにぎっしり詰まった文字が並んでいるだけだ。さらに、ページをめくった。そして、黄色い蛍光ペンが引かれた、その箇所が目に飛び込んできた。その数行を目で読み上げていく。
言葉が出ないまま、立ちつくしていた。
「分かりづらいですか?」
何も言わない奈津子に、男性が声をかけてきた。
内容が理解出来ないんじゃない。伝わってこないのだ。現実感がないのだ。
さらに、解説でもするように、「要するに会長さんがうちの会社から借金をしているので、毎月決められた金額をお返しくださいというものです。そして、もしも、一回でも滞った場合は全額返済を要求できる。要求に応じない場合は担保物件の権利は速やかに移行する。そういった内容です」
ジムが……なくなるってこと?
「そんなこと突然言われたって」
「突然でもないですよ。わが社に債権が移り、私が担当になってからは、会長さんに何度も説明させていただいておりますよ。全ては納得した上で印もちゃんといただいております。すぐに返済していただかなければ、ジムはやめていただくことも納得をした上での捺印ですよ」
「でも、前は遅れても待ってもらえたし、そんなことは言われなかったわ。それに大事な試合の前にわざわざ来るなんて……」
「お嬢さん」それまで柔らかで丁寧だった男性の声が、低くドスのきいた声に変わり、「前の会社がどういう対応だったかなんて知りませんが、我が社は契約どおりに正当な要求をしているのです。文句があるなら裁判でも何でも起こしなさい。我々に非などない。法に基づいて実行するだけです」
胸が押し潰されるようで、心が苦しい。誰もがきっと同じ気持ちでいる。あえでいる息遣いが聞こえそうなほど、静かな室内に重い空気が流れている。
そんな中、気持ちよく深呼吸でもしたかのように、笑みを浮かべる男性。
口調も銀行窓口の行員のようなトーンに戻し、「会長さんには、その辺りもちゃんと弁護士をとおして説明させていただいていますよね?」
彼は伝次郎に視線を向けた。その先には悔しさを堪えるように両拳を握りしめ、下を向く姿がある。
奈津子は動揺して泣き崩れそうな自分を必死に抑え、そこに近づいていった。
「おじいちゃん、何で言ってくれなかったの。こんなことになっていること」
伝次郎は何も答えてくれない。亮や淳史、ヤマさんも動揺しているのか、黙りこんでいる。
メガネの彼だけが口を開いている。
「会長さんもジムは絶対に手放したくないようで、大変困っていらっしゃったので、ある条件を出したんですよ。条件を飲んでいただければ返済は払える時まで待ちますって」
「おいっ、それは昨日断っただろ!」
今まで黙って下を向いていた伝次郎が怒鳴り、男性を睨んだ。
彼はそんな言葉に動じることもなく余裕の笑みを浮かべ、
「えぇ、確かに断られましたけど、みなさんはどう思っていらっしゃるかと思いまして」
「条件って何?」
奈津子は男性を睨みながら問いかけた。
横の伝次郎が「帰れ! いいから帰れ!」と声を張り上げた。
彼はその言葉を無視し、奈津子に視線を向けて、
「簡単な事ですよ。永井選手が負けてくればいいだけですよ」
沈黙がその場を支配した。でも、沈黙は一瞬で破られた。
淳史が男性に掴みかかっていた。彼に駆け寄り、胸ぐらを掴んで「お前!」と怒鳴っていた。
すかさず、ヤマさんが駆け寄り、後ろからしがみ付くようにして「試合前だ」と淳史を抑えた。
淳史の顔は真っ赤で、目は充血している。止めに入ったヤマさんの体は爆発しそうな怒りを抑え込むのに震えている。
「そんな条件出すなんて、あんた最低よ! あんたがどんな理由でそんな条件出したのかは知らないけど、亮は負けないわ。絶対に! もう帰ってよ、帰ってよ!」
奈津子の叫びが控室の中に響き渡った。
男性は乱れたスーツの襟もとを直し、あいかわらず薄ら笑いを浮かべたまま、
「残念ですねぇ。みなさんも断られますか。ではジムは無くなることになりますね。みなさんにとっても、だいぶ思い入れがあるジムだったようですが。特に御婆様との想い出は多いようですし、御婆様もさぞや悲しむでしょうね」
そう言うと、ドアに手をかけた。
奈津子は、いや、誰もが何も言えぬまま立ちすくんでいた。
そんな姿を横目に、男性はドアを開けた。そこで一度立ち止まり、振り返ることなく、言葉を捨てるように残して、去って行った。
「永井さん。断られても負けてくだされば〝条件はその時点で成立〟しますから」
男性のその言葉は、消えることのない燃えカスとして、奈津子の胸に残った。まさか、昔の冴えないドラマのような取引が、目の前で起こるなんて信じられなかった。
くだらない! 今の時代に、あんな取引を持ちかけるなんて、あいつはちょっと感覚がずれてる。っていうより、頭がおかしい。そんな取引に応じる人間なんているわけがない。おじちゃんだって、ちゃんと断ったじゃない。
奈津子は胸に残る燃えカスを消そうと、心で叫んだ。いや、自分自身に言い聞かせた。でも、チリチリと何かがくすぶっている。
ふと、視線を動かすと、机の上の散らばった白い紙が目に止まった。さっきまで自分が手にしていた物だ。
少なくとも、借金とジムがなくなるということが、現実であると示している。
亮の顔が引きつっている。いや、誰もが同じような顔で口を結んでいる。
沈黙の中、ノック音が聞えてきた。
また、あの人が引き返して来たかもしれない。そう思い、奈津子は脈が速まり、体が強張っている。
ドアが開き、姿を現したのは会場係員だった。
「時間です。よろしくお願いします」
「はい。分かりました」
奈津子は何だか力が抜け、漏れる息とともに返事をしていた。
うだうだ考えている場合じゃない。試合が始まるんだ。
気を取り直すように、深めに呼吸をしてから、「ほら、試合よ。さぁっ行こう!」と声をかけた。
「おうっ」と言う声が戻ってきた。
でも、声は響かず、重い空気に圧し潰されている。
みんなは〝青いハッピ〟をはおると会場へと向かった。奈津子も後に続いた。
みんなの背中が丸まって見える。実際には胸を張って歩いているのに、漲っていた闘志が萎んで小さく見える。
奈津子は服の上から指輪を握りしめた。




