からあげってやつは本当においしいです
亮はジムに戻ってくると、すぐにリングに上がった。
格好はいつものトレーニングウエアなので、着替える必要もない。それより、何より早く体を動かしたかった。
体がガチガチに固まってしまっている。
奈津子たちは試合の緊張だと思っているのか、リララックスさせるような言葉を何度もかけてきた。
確かに相手を見て緊張をしたのは確かだが、それよりあの会見ってやつが問題だ。明日は今日以上にマスコミが集まるという。さらに明日はテレビ中継もある。
奈津子は軽い口調で、テレビ中継は高校の時以来だね、とニコニコしながら言っていたが、あれとはレベルが違う。
あの時は広いグランドで、どこにカメラがあるのかも分からなかったし、今日のようにフラッシュをあびることもなかった。
車に乗っていた時は、何だか目の前がチカチカしている気がして、目を瞑っていた。
暗闇になると余計に残像が浮かんできて、明日への緊張が高まってきてしまう。こうなったら、エーイ! 寝てしまえ! と言った感じで瞼に力を込めていた。
でも、眠れるはずもなかった。横からは思い出したくもない記者会見の話しが聞こえてくるし、仕方がないから明るいアニメソングを頭の中で口ずさんでいた。
ふと、気付くと肩を叩かれていた。いつのまにか、寝ていたのだ。我ながら、全く持って、のんきなものだ。
そんなこんなで、気持ちも体も、グダグダだったので、とにかく体を動かしたかった。
亮がストレッチをしていると、奥で着替えていたヤマさんが戻ってきた。いつものTシャツ姿になって、ムキッと張り出した胸筋を両手でポンポンと叩いている。
まるで狭い車という檻から解放され、鎖というスーツからも解放されたゴリラだ。嬉しそうな顔からは、ウホウホという声が聞えてきそうだ。
ほぼ、同時に駐車を終えた奈津子も、姿を現した。見渡すように視線を走らせ、ゴリラ、いや、ヤマさんに近づいていく。
「ねぇ、おじいちゃんは?」
ヤマさんへの問いかけで、亮も気付いた。そういえば、伝次郎の姿が見当たらない。一緒にジムに戻ってきた後、ヤマさんと奥へ行ったはずだが。
「……うん。何か、疲れたみたいで、今日は先に上がるから、後は頼む、って」
ヤマさんの返事は意外な言葉だった。
確かに、もう、試合は明日だから、今からどうこういうものではない。後は軽く体を動かして、しっかり睡眠を取るだけだ。
でも、計量から帰ってきた後の調整に、伝次郎が顔を出さないなんて、今まででは考えられない。
ヤマさんもそう感じているのか、腑に落ちないといった顔を浮かべている。それを聞いた奈津子が、何だか深刻な顔をしているのが気になる。
視線を下に落として、何かを考えているようだ。そんな奈津子が視線を上に向けた。ドアが開く音が亮の耳にも届いていた。
「やあ、やあ、お疲れさん」
靴屋の老店主が入ってきた。
奈津子の顔はいつもの笑顔に戻っていった。
亮が、奈津子と老店主の話しを耳に、ストレッチを続けていると、次々と商店街の人たちがやってきた。
やがて、からあげを手にした明子も姿を現した。後ろには、店に一緒にいたのか、美貴たちも続いている。
明子は「差し入れでーす」と言いながらみんなに、からあげを配り始めた。
「何で、からあげなわけ? 俺が食べないのを知っていて」
体を動かし、みんなの顔を見たら、いつもの調子が出てきた。
明子は亮に顔を向けたと思ったら、ふんっと芝居がかった大げさなアクションで、首をそむけ、
「はい、はい、みんなさん。出来たてですので、どんどん食べてください」
「はい、はい、そうですか」
亮はそう言いながら、自然と微笑んでいた。いつもの明子の姿に、心がすっと軽くなっていた。
明子は大皿にのせてきた、からあげの山を、紙ナプキンに包んで、ひとりひとりに渡していた。
奈津子に渡す時には「あれ? 会長は?」と聞いていた。
奈津子は「中で休んでいる」と答えていた。その顔が一瞬不安げに見えたのが、やっぱり気になる。
全員に配り終わった明子は「みなさん、まだまだ、ありますからね」と言いながら、まだ5合目くらいまではありそうな、からあげの山をゴングなどがある長机に置いた。
その後、美貴からレジ袋を受け取って、リングに上がってきた。
そして、大股を開いて柔軟をしている股の間に、ガサガサさせながら中の物を置き、何も言わずに去っていった。
亮の目の前には大好きな甘いプリンが、スプーンを添えて置いてある。
自分もプリン好きだけあって、ちゃんと細かいところまで分かっている。種類はもちろん、メーカーまでばっちりだ。
視線を上げると、明子がリングを下りていく。そして、リング下の長机から、ひとつ、からあげを掴み、パクリと食いついた。
嬉しそうに微笑んで、喜んで食べるみんなを見つめている。
「サンキュウ」
亮は小声でそう言うと、プリンを手に取った。
「りょうくーん! からあげ、きらいなの?」
プリンを綺麗に食べ終わった頃、そんな声が聞えてきた。
おかわりを手にしている拓也の声だ。
その問いかけに「嫌いじゃないけど……」と口ごもっていると、奈津子から助け舟が出された。
「タッくん、ボクシングをする人は試合前、あんまり、からあげとか食べられないの」
からあげで膨らんだ口を、もごもごさせている。
「ふぅーん、おいしのに」
そう言って拓也は、からあげにかぶりついた。
そんな拓也を眺めながら亮は考えていた。
――俺はいつから〝親父のからあげ〟を食べなくなったんだろうか。ボクシングの減量のためだっただろうか。
でも、試合後や減量が必要ない時でも、からあげを食べることはなかった。子供の頃は好きだったのに……。
今はまったく食べないし、話しをすることもほとんどない。
親父に期待するのをやめたあの頃から、食べることもなくなり、話すことも減っていった気がする。




