リングには魔物がおります
ハッピを脱いだ亮が、奈津子たちとハイタッチをして、リングへ上がっていく。そして、伝次郎とヤマさんも、奈津子と淳史とハイタッチして、リングへと上がっていった。
奈津子と淳史の手からも、心地いい音が鳴っている。
淳史が花道を戻っていく。そのまま、みんながいる観客席に向かうことになっている。
奈津子はその姿を見送り、いつもの場所へ――リングサイド近くの客席。その最前列がひとつ空席になっている。
3人分のハッピを手に、そこに腰を下ろした。
ざわめきの中、選手紹介のアナウンスがあると、会場が弾けた。
亮の紹介で、ひと際は大きな声が上がり、奈津子が後方へと視線を向ければ、商店街のみんなが立ち上がる勢いで声を上げている。
そこへと近づく人影。
淳史が観覧席の後方から、声を張り上げながら、その一角へ向かっている。
淳史に気付いた商店街の人たちが声をかけているようだ。照れたような笑みが、まんん丸顔に浮かんでいる。
そんな淳史の視線が、左右へと走り、そして止まった。
奈津子は、その視線の先へと目を向けた。
応援団から少し離れた席に、あの老女の姿がある。彼女の表情が崩れ、親指を突き出した。それに応えて、淳史も親指を突き出している。
よかった――奈津子は胸の中で、そうつぶやき、視線をリング上へと戻した。
リングの中央で、亮と相手の選手が対面し、レフェリーが言葉をかけている。
そんな2人が、それぞれのコーナーに別れた。
戻ってきた亮の表情は、気合がみなぎっている。心配になるほどに……。
奈津子の気持ちを代弁するように、ヤマさんが、すぐに声をかけた。
「いいか、落ち着いて入れ。数ラウンドは足を使って、様子を見ていくぞ」
ヤマさんの言葉にうなずいてはいる。だが、奈津子の口からつぶやき声がもれる。「危ない……」
頭をよぎるのは、1ラウンドでKO負けしたデビュー戦だ。
ダメよ。イノシシだって、警戒心っていうのがあるのよ――奈津子が胸の中でそう声をかけた瞬間、ゴングが鳴った。
亮が、向きを変えて、突き進んでいく。そして、相手と軽くグローブを合わせた。
大丈夫。あの時とは違う。デビュー戦の時は、ゴングの後、相手に向かって猛然と突っ込んでいた。グローブを合わせることさえ忘れて。
亮は、いったん距離を取るように相手と離れた。だが、次の瞬間、猛然と突入していた。
デビューから何戦も重ねてきて、学んだのは最初にグローブを合わせることだけ?
あとは何も変わってないじゃない――奈津子は胸の中で叫んだ。
相手は亮の勢いに一瞬怯み、後ずさりしたが、さすがに日本ランカー、すぐに立て直して、サイドステップで距離を取っている。
亮のパンチは、ただ空を切るばかりだ。力みまくりで、しかも大振りじゃ、当たるわけがない。
完全に気合いの空回り。デビュー戦は初めて試合だから、でも、今回は何があったというの? 淳史のこと? それとも、他に何か?
ここにきて連勝しているのは、イノシシモードもちゃんと勝負所を見極めてのラッシュだったのに……。
「あっ!」
奈津子は声を上げて、腰を浮かしていた。
亮のパンチをかわした相手選手が、踏み込んで放ったパンチが亮のあごを捉えていた。
アッパーカウンターに亮が膝をついている。
会場は様々な声が入り乱れ、爆発する勢いだ。
レフェリーがダウンとうことで、カウントを取り始めた。
亮は視線を自陣のコーナーへと向け、一度うなずいた。大丈夫ということだろう。
ヤマさんからも、「よし。大丈夫、大丈夫。深呼吸して、ゆっくり立ち上がれ」
奈津子は、自分を落ち着かせるように、数度うなずいた。
大丈夫。出会いがしらの一発。パンチが効いて、膝をついたわけじゃない。
亮もパンチをもらって、逆に落ち着いたように見える。
ヤマさんの指示どおり、呼吸を整えて、ゆっくり立ち上がっている。そして、すぐにファイティングポーズを取った。
レフェリーのカウントは止まり、ファイトの声がかかった。
相手は、様子をうかがうように、ゆっくり近づいている。亮もゆくっり足を踏み出した。その瞬間、ぐらりと揺れた。
「亮!」
奈津子は思わず叫んでいた。
ピンポイントで急所を捉えていたのか、足にきている。
相手も、それにはすぐに気付き、一気に距離をつめてきた。
「亮! ガード」
奈津子は口に手を当て、叫んだ。ヤマさんや伝次郎からも、同じ言葉が飛んでいる。
亮は、声にしっかり反応し、顔の前で両腕を固めた。
相手はチャンスを逃すまいと、構うことなく、ガードの上からでもパンチを繰り出している。
亮は、よろけるように後退している。ガードを固めたまま、ロープにもたれるようになっている。
レフェリーが、しきりに亮の様子をうかがっている。
奈津子の位置からでは、相手の陰になって、亮の表情は見えない。
このまま、打ち返せずに防戦一方なら、止められてしまうかもしれない。TKO(負け)、その言葉が頭をよぎる。
お願い――重ねた手を握りしめた。
相手が、勝負を決めようと右腕を大きく振りかぶった。
奈津子の視界から、亮が――
消えた。




