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亮は自分の部屋から一階に下り、台所に向かって、「行ってくる!」と声をかけた。台所からは、夕食の準備をしているのか、物音が聞えている。
返事はないが、気にすることもなく、居間を通って上がり口でサンダルを引っ掛けた。そして、調理場を抜けて、店から外に出ようとした。
「ちょっと待って!」
突然、声が飛んできた。明子が早足に近づいてくる。
「ちょっと、待ちなさいって言ったでしょ」
「そうなの。聞こえなかったけど」
明子が手にしている大きな皿。それで、なんで呼び止められたか気づいた。
今日は土曜だし、淳史の家に向かおうとしているのだから、そういうことだ。淳史に頼み事があって、そっちに気が向かっていて、うっかりしていた。
「まったく。ほら、あっくんの家に行くなら、これを持っていって。いっぱい作ちゃったから」
大きな皿が手渡された。
「なんで、いくら計量が終わったからって夕食が、胃もたれしそうなエビフライなわけ。明日試合なんですけど」
「別に、あたしが食べたかったから作ったの」
「ハイハイ、そうですか」
亮はそう言いながら、苦笑いを浮かべて店を出た。
暮れはじめた商店街の中は、ほとんど人の姿がない。いつものことだ。
歩き始めた亮の背中に、明子の大声が追いかけてきた。
「早く帰ってきなさーい。すぐにごはんにするから」
再びの苦笑い。
視界にはエビフライがある。淳史たちの大好物だ。
淳史の母親は9年前に突然、家を出て行ってしまった。
明子は寂しがる淳史と幼い妹ユイのために、夕食作り過ぎちゃった、と言いながら、週末なると淳史の家に行くようになっていた。
だから、週末には2人の好物が永井家の食卓にも並んでいた。
とはいっても今日くらいは……さすがに試合前に揚げ物はきつい。
でも、家に戻った時、食卓には胃に優しく亮の大好きな鶏肉うどんが湯気をあげて並べられた。
そして、食後にはテレビを見ている亮の前に、減量中我慢し続けていた大好物あまーい半凍プリンがそっと置かれていた。
池田洋品店では店主の池田武史が店の後片付けをしていた。
「おやっさん」
亮が声をかけると、
「おぅ、亮。どうだ調子は?」
「絶好調!」
「そうか、そうか。明日はばっちり応援するからな」
淳史そっくりの顔と体型の武史はうれしそうにうなずきながら言った。
とその時、店の奥からパタパタと足音がしてきた。そして、満面の笑顔でかわいい女の子が現れた。
「亮ちゃーん」
淳史たちとは正反対の細い体を弾ませ、10歳になる淳史の妹ユイが目の前にやってきた。
「亮ちゃん、明日がんばってね。応援に行くから」
「あぁ、頼むよユイちゃん」
亮が笑顔で言うと、ユイはうれしそうにうなずいた。
「ユイちゃん。これ、かあちゃんから」
「やった! ユイの大好きなエビフライ」
大皿を受けとったユイは飛び跳ねそうな勢いで喜んだ。
外のほうからは聞き覚えのあるエンジン音がしてきた。音は店の前でやみ、大汗をかきながら淳史が現れた。
「あっついー、とけそうに暑い」
手にしているタオルで顔を拭って、犬のように下を出して喘ぐ仕草をしている。
日が沈めば暑さが少しは和らいでいたが、淳史にとっては真昼間と変わらないようだ。ということは、淳史の昼間は亮たちにとったら、あっつい風呂に入り続けているようなものかもしれない。
「おっ、亮。とりあえず計量をパスできてよかったな。奈津子から電話があったよ」そう言って大きく息をつくと、「ところで、どうした?」
するとユイが大皿を持ち上げ「お兄ちゃん! これ」
「おー、エビフライか。亮、いつも悪いなぁ。明おばちゃんに、お礼言っといてよ」
「あぁ」亮はうなずきつつ、「淳史、ちょっと外いいか?」
「いいけど、どうした?」
「うん。ちょっと」
淳史とともに外に出ようとすると、
「ユイもいっしょに行く!」
ユイが大声を上げた。
「ユイ。ほら、エビフライを向こうに並べておいて」
淳史が店の奥の居間を指差しながら言うと、
「えーぇ、やだー。ユイも行く」
「ユイ」
淳史がゆっくりとした口調で言うと、ユイは「はーい」と不満顔ではあるが中へと入っていった。
淳史の言葉には、1歳になったばかりで母親に取り残された赤ちゃんを、父親と2人で必死に育ててきた厳しさと、たくさんの優しさが含まれていた。
「淳史、頼みがあるんだけど」
原付バイクに腰掛けながら亮は口火を切った。
「亮が俺に頼みごとするなんて珍しいな。それで頼みってなんだよ」
「明日なんだけど――」
話しの途中で、何度も淳史が口を挟んできたが、亮は気にすることなく話をつづけた。そして、話し終えると、淳史は激しく手を振りながら、猛烈に反対の声を上げてきた。
「無理! 無理! 絶対無理」
「淳史。いつも淳史の強引な提案に俺たち付き合ってきたよな。だから今回は頼むよ」
「確かにそうだけど……でも、それは無理だって」
困り顔で断る淳史に亮は、「大丈夫だって。お前、桟橋のところのおばあさん知っているか? そのおばあさんが――」
淳史はだまりこんでいる。亮の言葉を噛みしめるように。
亮はゆっくり立ち上がると「よろしく」と言って歩きだし、後ろ向きで手を振った。
「りょう……」
淳史の声が聞えた気がしたが、振り返ることもなく歩き去った。
――翌朝の桟橋に老婆と大きな男の姿がある。老婆の手にはチケットが握られていた。




