第1話~故郷と夏風邪
理沙の初バイトから2週間が過ぎた。8月もすでに半ば。怒濤の毎日だった。思い出しただけで胃が痛くなる。
バイト中、店の物を大量に破壊した彼女もすっかり元気を取り戻していた。その後もやりたいことリストを消化する日々が続く。
その中には、まず無理だろというものもいくつかあった。
ピラミッドが見たい。マチュピチュに行ってみたい。オーロラを見たい。その他諸々。さすがに金銭的にも時間的にも空間的にも難しいので却下した。
次は無理そうだが、代替え案がないわけではないシリーズ。
二次元に行きたい。テレビに出たい。好きなバンドのライブに行きたい。猫を飼いたい。サンタからプレゼントをもらいたい。
俺は相当に頭を悩ますことになった。それでも、なんとか代案を実行し、乗り越えることに成功した。
二次元には当然いけないので、彼女にコスプレをさせて、夏コミに連れていった。夏コミというのはオタクたちの祭典みたいなものだ。別にオタクをバカにしているわけでは決してない。俺もけっこうな漫画オタクだ。
好きなバンドのライブは難しかったので、最近流行りのロックバンドグループのライブに行った。終始、彼女は大盛り上がりでうるさかった。カメラが回っていたので、俺と彼女は後ろ姿がばっちりテレビに映っていた。まとめて2つも叶えてやった。
思いつきで、生き物を飼うのは気が引けた。だから彼女を猫カフェに連れて行った。そこで俺は自分が猫アレルギーだと知った。3日間、あまりの痒さにのたうち回った。
店員に白い目をされながら、真夏にサンタ服を購入した。ちゃんとサンタの格好をして、彼女の寝てるところにプレゼントを置いてあげた。次の日、欲しいのこれじゃないわ!とキレられた。
そんなこんなで、出費と疲労が絶えない。俺の財布と体重は見事に軽くなった。
「次は何しようかな」
隣で、やりたいことリストを検討する彼女が、一瞬だけ恐ろしい悪魔に見えた。しかし、こんな生活に少し楽しみを覚えている自分がいて驚く。生活が彼女中心に動いていることがそんなに嫌ではなかった。
「あたし、お父さんとお母さんに会いたい」
いつもと違って彼女は真剣な表情でそう言った。
急にそんなことを言い出すものだから、俺もなんと返せばよいのか分からなかった。
***
新幹線の中で、彼女は一言も話さなかった。彼女は今どんな気持ちでいるんだろう。窓の外をボーッと眺める彼女の横顔からは何も読み取れなかった。
新幹線を降り、駅を出る。朝に出発したが、もう昼過ぎになっていた。
彼女が生前に住んでいたという街は見覚えがあった。俺が子どもの頃、住んでいた街だった。少しの間だけ生活した記憶がある。こんな偶然もあるんだなと思った。
ふと彼女を見ると、ひどく緊張した様子が見てとれた。たぶん無意識なのだろう。俺の手をぎゅっと握っていた。
***
彼女の家は、駅からバスで20分、そこから歩いて10分ほどのところにあった。俺が住んでいた地区とそう遠くない。もしかしたら昔、すれ違うくらいはしていたのかもしれない。
どこにでもある一軒家だった。庭は長い間、手入れされている様子がない。カーテンは閉めきっていて、中の状態をうかがい知ることはできない。俺たちは少し離れた公園のベンチに座りながら家を眺める。
「行ってみるか?」
俺はそう声をかけた。しかし、彼女は首を横に振るだけで、動こうとはしなかった。
それからコンビニで買った遅めの昼御飯を食べた。少し経った頃に、その家から女性が出てきた。40前後くらいだろうか。おそらく理沙の母親だろう。俺の手を握る力はより一層強まり、彼女はじっとその女性を見つめていた。
「声かけてみるか?」
「いい。かけたところで迷惑にしかならないから」
何かをこらえるような声だった。まだ15歳の女の子だ。今すぐにでもかけ出して、母親の胸に飛び込みたいはずだ。
彼女の気持ちを考えると苦しくなる。なんて声をかけたら良いか分からない。黙って手を握り返す。その間に女性はどこかに行ってしまった。
「あたし、1人っ子だったの。お父さんもお母さんもすごく可愛がってくれた。それでも病院のベッドで過ごす毎日は寂しかった。なんで、みんなみたいに外で遊べないんだろう。学校で勉強できないんだろう。家族でご飯を食べられないんだろうって、いっつも考えてた」
急な告白。反応を返すことができず、黙って聞いていた。
「それでもあたしに勇気をくれた人がいてね。あたしも頑張ってみようと思えたんだ。その人が歌を褒めてくれてもっと歌がすきになって、生きることが楽しくなった。辛い毎日が嘘のように変わったの」
彼女に勇気を与えた人がいたらしい。難病で苦しんでいる子どもに、ちゃんと向き合って話をする。その行為が生半可な覚悟ではできないことは分かる。少なくとも俺にはできないと思う。
「来てよかった。もう充分よ」
彼女の目からは涙がこぼれていた。
「お父さんはたぶん仕事で遅いし、これ以上いたら辛いから」
涙を自分の手でふき、笑顔を浮かべる彼女は見ていられなかった。その後、彼女の呼吸が落ち着くのを待った。
「帰るか」
俺はそう言い、彼女の手を引いて、来た道を歩く。夕陽が沈みかけた空は、ひどく寂しいものに見えた。
「あ、あの」
急に声をかけられたので、ふり返る。そこには、先ほどの女性が立っていた。ひどく疲れた顔をしているように見える。そして、綺麗な人だった。遠くで感じた見立てより実際はもっと若いのかもしれない。
隣の彼女は完全に動揺していた。こちらまで心音が伝わってくるようだった。
「はい?」
「いきなり声をかけてしまい、すみません。この近くに住まわれている方ですか?」
「いえ、違いますが、どうしてそんなことを?」
「いや、そんなはずはないんですが、隣の女の子が、その、私の亡くなった娘に少し似ている気がしたので。急にすみません、こんなこと言って」
その女性は、ところどころつっかえながら事情を説明してくれた。
「いや、大丈夫です」
「姿や顔は全然似てないんですけど、雰囲気がすごく似てて」
俺と女性が話している最中、理沙はずっと下を向いていた。
「重ねて失礼なお願いなんですが、少しだけでいいんです。その子を抱き締めさせてもらってもいいでしょうか?」
端から聞けば危ない発言だ。女性も自分で言っておいて、それはないだろうと思ってるのかもしれない。困惑が伝わってくる。しかし、目は本気だった。
「どうする?」
俺は隣にいる彼女にたずねる。
「あたしは……別に構わないです」
それを聞いた女性は一歩前に近寄る。そして優しく理沙を抱き締めた。彼女はされるがままだ。それは優しく、一瞬の温もりだった。
「あっ……」
女性はすぐに理沙から離れた。理沙は小さく声を出す。少し女性を目で追い、またうつむいてしまう。
「ありがとうございます。急にこんな変なお願いしてしまって」
「い、いえ」
理沙は顔をあげることができない。
「本当にありがとう。彼氏さん、少しだけ彼女をとっちゃってごめんなさいね?」
「いえ、大丈夫です」
理沙は恋人ではないが、今それを言うのは野暮だろう。少し明るさを取り戻した女性は、そう言った。元々、明るい人なのかもしれない。それもそうだ。理沙の母親なのだ。そっちの方がしっくり来る。
その後、その女性は深々と頭を下げて、家に戻っていった。
少しの間、俺たちはそのまま動けなかった。
「帰るか」
「…………うん」
俺は帰りも彼女の手を引いて歩いた。
***
家につく頃には、もう夜の10時を回っていた。俺は、先に彼女にお風呂をすすめる。
「悠太、先入って」
彼女がそう言うので、俺は先に入ることにした。風呂場では彼女の悲しそうな表情ばかり浮かんだ。連れていったことは本当に良かったのか。考える。しかし答えは出ない。彼女のことが不安だった。帰り道で見た姿は消えてしまいそうなくらい、小さく見えた。
彼女のことだ。またすぐに元気になる。そう思おうとしたが、不安は消えなかった。
「理沙、風呂空いたぞ」
返事がない。もしかしたら疲れて寝てしまったのかもしれない。そう思い、寝室を開ける。
いなかった。
俺は慌てた。彼女は夜に出歩くようなタイプではない。会いに行くような友達もいないはずだ。不安がどんどん大きくなる。
まさか。一抹の不安がよぎる。
彼女のやりたいことは今日の出来事で達成されたのかもしれないということだった。確かにあと何個あるとか、いつまでとか詳しいことを聞いたことはない。
急すぎる。あまりにも。
俺はひどく落ち込んだ。自分でも驚くほど取り乱した。どうかしている。会って3週間の、彼女でもない、ましてや人間でもないユーレイ少女。なのに、こんなにも心を乱されている。
自分の中で彼女の存在が、こんなにも大きくなっているなんて思わなかった。人は失って気づくなんて、誰かが言っていた。その誰かに八つ当たりしたくなる。
頭を抱え、失意に暮れているとき、ドアが開く音が聞こえた。
「ど、どうしたの悠太」
理沙だった。気晴らしに買い物に出掛けていたらしい。手にはアイスの入ったビニール袋を持っていた。
良かった。心の底からそう思った。それから急に恥ずかしくなってきた。なんとか誤魔化そうした俺は
「どうも、厄介な夏風邪をこじらせたらしい」
と、呟いた。
「全然、意味わかんないんだけど。もしかしてあたし、いなくて寂しくなっちゃったとか?」
彼女はけらけらと笑った。俺は力なく笑うことしかできなかった。