第5話~旱天の慈雨
理沙が出掛けたあと、俺は気分を変えるために散歩をすることにした。
家の近所を目的もなく歩く。俺のマンションは住宅街の一画で、細い路地も多い。昼前という微妙な時間帯のせいか、ほとんど人とすれ違うこともなかった。
ふらふら散歩をしていると、たまにバイトをさせてもらっている喫茶店の前を通りかかる。
なんとなく人恋しくて、お世話になっている店にお邪魔することにした。
ドアについたベルの涼しげな音が響く。
「悪いけど、まだ開店前だよ」
奥から気だるい声が聞こえてくる。顔も出さずに。本当の客なら相当失礼なのだが、それがその人らしくもあった。
「店長」
俺はそのまま、奥に入り、ひとこと声をかける。
店長は、タバコを吸いながら、漫画を読んでいた。漫画を読むのを止め、こちらに顔を向けた。今日シフトじゃないよな?と聞かれたので、たまたま立ち寄ったことを話した。
俺がたまにバイトとして世話になっている店長兼オーナー──涼香さん。
黒髪を短めに切った髪と鋭くも色っぽい瞳が印象的だ。例えるなら、ロックを愛する不良少女が、そのまま大人になったらこんな感じ、だろう。と、少し失礼なことを考えた。歳は正確には聞いたことはないが、アラサーだったと思う。30越えてるかもしれない。正直、そうは見えない。20代前半でも全くおかしくない。
常に気だるげにタバコを吸いながら、コーヒーを飲む彼女は普通にかっこいい。口調も男っぽい。
店内はカウンター数席とテーブル席が2つ。小さめのお店だったが、コーヒーの味と落ち着いた雰囲気が人気で常連客もそれなりにいた。
「今日はどうした?」
「暇だったので冷やかしに」
「帰れ」
「嫌です」
俺が遠慮せず、気さくに話せる数少ない人間だ。信頼していると言ってもいい。たまに悩んだとき、それとなくアドバイスしてくれる。感謝している。恥ずかしいから言葉には出さないが。
淡い光が優しく照らす空間。気持ちが落ち着いてくる感じがした。なんとなく昔話でもしてみたくなる。
「店長と会ってからけっこう経ちますよね」
「ほんと、いきなりどうした?まぁ確かにな。もう3年くらいになるか。あんときは悠太をぶっ飛ばすところだった」
「初対面だったのにほんと信じられないですよ」
他愛もない冗談を交わす。それが心地よい。涼香さんは重い腰を上げて、厨房に消えていく。コーヒーを入れてくれるみたいだった。なんだかんだ言って優しい人だった。
俺は、そのときのことを思い返した。
***
俺と涼香さんが初めて出会ったのは、中学を卒業する少し前だ。あのときは樹に追い付けないと悟り、夢を諦めた俺は素行の悪い友人とバカばっかりやっていた。
その日もそいつらと遊んでいた。しかし、なんとなく気分が乗らずに先に帰ることにした。
その帰り道、家の近くの公園で、いじめられている子どもを見つけた。小学校に上がるかどうかくらいだ。
少し年上の3人が、1人をいじめているようだった。いじめられている男の子は2人のいじめっ子に手を拘束されている。そして残りの1人が自由帳のようなものを奪っていた。
「うわっ、なんだこれー、へってー絵」
そのノートをペラペラとめくりながら、馬鹿にするいじめっ子。返してよーと、いじめられっ子がめそめそ泣いていた。
普段なら、ガキの喧嘩かとスルーする俺だったが、その会話がなんとなく勘に障ったので、そいつを助けることにした。
3人のいじめっこを追い払い、泣いている男の子に声をかける。
「もう泣き止め。お前、名前は?」
「うぅ………蓮です。助けてくれてありがとうございます」
その年でちゃんと敬語が使えるのか。けっこう賢いのかもしれない。
「蓮!」
その時、1人の女性が猛スピードで走ってきた。
「蓮から離れろ、クソガキ!」
めちゃくちゃ怒っていた。はあ?と俺がケンカ腰になったのを蓮が事情を説明して仲裁してくれた。その女性が涼香さんだった。
それ以来、たまに2人と会うようになった。蓮と遊ぶこともあった。けっこうなついていて、今は悠太にいちゃんと呼んでくれる。
そして高校に入ってからは喫茶店でバイトさせてもらって、なにかと面倒を見てもらう仲になった。
***
「ほら、飲め」
自分の思考に浸っていて、すぐに気づかなかった。彼女はカウンター越しからコーヒーをご馳走してくれる。口はぶっきらぼうだが、中身はすごく優しい。
「いただきます」
俺は熱々のコーヒーをすする。元々ブラックのコーヒーは嫌いだったが、彼女の入れるコーヒーを飲んでから好きになった。
「それで本題は?なんかあったんだろ?相談のってやるよ。名前で呼んでくれたらな」
全部、お見通しだった。顔を一目見ただけで相談したいことがあるって分かったよ、と言われた。ぐうの音も出ない。
でもちょっと悔しかったので、じゃあ、帰りますと席を立つ。すると、悪い悪い、からかっただけだよ、と笑っていた。
ゆっくり座り直す。俺は理沙の名前を伏せて、最近会った出来事を話した。
「ほとんど叶う可能性のないものを追いかけるのは意味があるんですかね?」
全部を話すのは、なんとなく躊躇われた。恥ずかしかったんだと思う。
彼女は、顎に手をあてながら少し考えたそぶりをする。一つ一つの動作が、またサマになる。
「何を指してるのかよく分からんが。そうだな、一つ昔話をしてやろう。1人の女の話だ」
そう前振りを入れた彼女は、ゆっくりと語りだした。
「その女は小学生の頃、親が離婚した。寂しさを誤魔化すために音楽にのめり込んだ。気づいたら音楽の世界に魅せられていた」
女というか完全に涼香さんの過去話だった。そう思ったが、普段は自分のことを全然話さない彼女の話を俺も聞きたかった。だから話の腰は折らないことにした。
「そしてそいつは自然とその世界の先を知りたくなった。ミュージシャンを目指して上京することに決めた。もちろん周りから反対された。
しかし結局、夢を貫いた。結局デビューは出来なかったが、納得する形で辞めることができた。その後に結婚し、子どもにも恵まれた」
初めて聞く彼女の話だった。
「人生に正解はない。無数の選択肢の中で、自分で選ぶ。そして選んだ道を自分なりに正解にしていくしかない」
素直に関心した。多くの経験をしている人の言葉は心に響く。
今、その女はカフェ経営してる未亡人。残された店を手のかかるバイトと一緒に楽しくやってるよ。と付け加えた。
俺はそんなに手のかかるバイトなのか。ちょっと落ち込みつつも、笑ってしまった。
「音楽も男も全部、自分で選んだ。もし遠慮してたら後悔してたかもな。悠太も自分に素直になってみることだ」
彼女は、タバコを吸うのを止めて、こちらをまっすぐに見据えていた。その言葉は、気だるさと温かさを含んでいた。店長に相談して良かった。
「ありがとうございます。参考になりました」
俺はお礼を言う。コーヒーもご馳走さまです。おいしかったと付け加える。久しぶりに気持ちが澄んでいた。
帰り際、青春だな、その子大切にしろよ、とニヤニヤした顔で言われたので、別に恋愛の話じゃないと答える。
青春だと言っただけで、恋愛だとも女の子だとも一言も言ってないけど?と言われた。
「今度連れてこいよ?」
俺は、一本とられたと思った。