プロローグ~邂逅の砌
初めての連載作品。になる予定。
──その嵐は突然やってきた。
何の前触れもなく、何の脈絡もなく。
俺はただ呆然と眺めることしかできなかった。
あれは、付き合っていた彼女とのデートの帰り道だった。小さな神社へ立ち寄った時のことだ。
普段は誰も近寄らないような場所だったが、昔はよくお祭りがあって小さい頃、親によく連れてきてもらっていた。
彼女もよく遊びに来ていたらしく、懐かしさもあって、珍しく会話が弾んだのを覚えている。
そして笑っていた彼女がその直後に豹変したこともはっきりと目に焼き付いている。表情や口調、声色、そして瞳の色さえも別のものに感じた。
今、考えてみても俺にはどうすることもできなかったと思う。なぜなら、流されて生きていた自分が能動的に何かを行うことなどないし、これからもないだろうから。
「あたしは理沙。あんたの彼女には悪いけど、あたしが乗っ取ったから。文句は言わせない」
それが彼女──理沙との出会いだった。
***
──ダルい。眠たい。暑い。
人生とは、つまらないの集合体だと思う。
黒板の前に立つ現国の教師が、どこの誰かも知らない偉人の古文について説明をしている。
全く頭に入ってこないその声は、延々と続く。真剣にノートに写しているやつなんて数人しかいない。
廊下とは真反対の窓際、最後列。つまり教室の一番左後ろにある俺の定位置からは授業に臨む彼らのやる気ゲージなるものが手に取るように見えた。
将来、役に立つ可能性が皆無に等しいと皆、感じている。俺にはそんな風に見えた。
頬杖し、目線だけ左側に向ける。温い風が入り込んでくる窓の外を眺める。外では下級生達が大きい方のトラックを走っていた。
午後は体育。暑いし、面倒だなと、ボーッと茹だるような暑さの中、俺はそんな下らないことを考えていた。
***
進路調査表が配られた。
今年、俺は高校三年。どんな理由や状況があろうとも自分の進路を決めなければならない時期。
まだ十数年しか生きてないにも関わらず、自分の進路を決定しなければならないというのは不思議だ。と、客観的に自分の状態を見てしまう。
親の世代は俺たちをゆとり、さとり世代と呼ぶが、正直なかなかのネーミングセンスだと思った。
熱意が持てない。やる気がない。欲がない向上心がない。安定しか求めず、努力を嫌う一群。そのくせ付き合いは悪い。
そんな風によく揶揄される。カテゴライズは、みんな大好きだ。分かりやすく分類したいのだ。
そしてそのカテゴリーから抜け出して、個性で飯が食べられるなら苦労はない。
安定を求めるのも、努力したくないのも当然の欲求だ。努力しないで済むならそれでいいと思う。それのどこが悪いのか。
どうして今の時代、自分の人生に希望が持てるのか。自分が進むべき道はどこにあるのか。
進学、就職。どこに向かっても知らない道しかない。
考えても考えても分からないような難題だとしても解くしかない。
そしてまたその議題をより複雑にするのが親のこうなってほしいという願望だ。
どこどこ大学よりは上に行って欲しい。そして白々しく聞いてくるのはお決まりの台詞。
───将来やりたいことはないのか?
仮にそれを伝えたところで、承諾する気は更々ないくせにわざとらしく聞いてくる。
そして物心ついた頃から隣に存在していた──情報社会。
今でも恐ろしいスピードで移り変わっていく情報の波。波というかもはや渦だ。個人でも情報発信がいつでもどこでもできるようになった。
その一方で、ネットに溢れる嘘かほんとか分からない誰かの美辞麗句に真に受け、自分が何者なのか分からなくなる人も大勢溢れ返ることになった。
確かに便利だ。表面的には。しかし互いに本当の顔も、心も見えない。
蜘蛛の糸のように張り巡らされた網は、仮初めの自由と引き換えに俺たちの意識を完全に縛り付けた。
学校にいても、家にいても、外にいても、そこからは逃げられない。
誰も彼もが充実した毎日を演じてはネットに文字を貼り付け、水面下ではバタバタと足を動かす。
この世は虚構だ。誰も幸せになどなりはしない。限られた席を奪い合い、幸せが誰かの不幸の上に成り立っている時点で、答えは出ている。
そして席に座れたとしても、奪った報いは必ず返ってくる。永遠に居座り続けられる神の椅子など存在しない。自分自身、ひねくれている自覚はある。
それが18年、流され生きてきて作られた俺の人生観。
***
終礼のチャイムが鳴り、ガチャガチャと椅子の音が響く。
各々、中の良いグループで固まり、三々五々帰っていくクラスメイト達。そんな中、自分に声をかける者はいない。
俺はしばし、その様子をぼんやり眺めていた。
「悠太くん、一緒に帰りましょう」
横を向けば、いつもの顔があった。
海奈──二年から付き合っている彼女。もう付き合って半年以上経つ。人生はつまらないの集合体だが、彼女と話をするのは嫌いではない。
少し地味というかおとなしい彼女は、昔から綺麗な黒髪を腰近くまで伸ばしている。顔は鼻も高く整っているのだが、どうにも自信なさげな瞳がいつも揺れていて不安そうな表情がデフォルトだった。
「わかった」
短く返事をし、席を立つ。
彼女とは家もわりと近いため、下校は一緒に帰ることが多かった。
いつもと変わらぬ平凡な日常だった。
道すがら話を聞き流しながら、ときおり相槌を打つ。彼女が提案をして、俺が流されるままに受諾する。
今週末はデートすることに決まったらしい。正直、めんどくさいなと思いつつも、それを顔に出すことはなかった。
***
学校から程近い駅での待ち合わせだった。
時間ちょうどに着いたら、彼女は既に来ていた。
土日は人が多い。そのせいで夏の日差しと合わせて暑さが三割ほど増しているように感じる。最近は近代化も進み、高層ビル群が建ち並ぶ駅周辺。
しかし、そのおかげが風通しだけ良いのが救いだった。
なかなか気分が乗らない中、ショッピングに付き合う。
海奈は、いつも通り、不安そうな表情で、しかし、ときおり楽しそうな顔を浮かべて洋服と俺を交互に見ていた。
「少し歩き疲れましたね。悠太くん、ご飯にしませんか?」
「そうだな」
近くのファミリーレストランに入ると、休日の昼時の混み具合を見て失敗したなと思った。
少し待って呼ばれた後、案内されて四人掛けの座席に向かい合うように座る。メニューを見る。海奈もけっこう迷っているようだった。優柔不断は昔からだ。
席の近くでは、走り回る子供たちが色鮮やかなドリンクを持って、無邪気に笑っていた。
何の恐れも疑いも持っていない純粋な瞳がひどく眩しく見えた。
なんとなく自分の幼少時代を思い出す。確か絵をよく描いていた気がする。ちゃんとストーリーを考えてから漫画っぽくしていた。完成度は悲惨なものだったが、それでも楽しかった。
近所の子がよく遊びに来ていて、絵を褒めてくれていたような気がする。
もう十年近く前の話だ。かなり記憶が抜け落ちている。
「悠太くん?」
海奈から声をかけられて我に帰る。
それぞれ注文を若そうなウェイトレスに頼み、冷たい水を飲む。俺はミラノ風ドリアを、海奈は半熟卵の乗ったパスタを頼んだ。
基本的に海奈はおとなしいので、デートと言っても会話は少ない。
しかし、告白してきたのは彼女からだった。
あれは高二の秋頃だったと思う。
今は違うクラスだが、二年のときはクラスが一緒だった。だからと言って別に仲が良いわけでもなく、会話することもほとんどなかったと記憶している。
ある日の放課後に急に彼女に呼び出された。
暇そうだからと選んだ図書委員だった自分と違い、その風貌から似合い過ぎる図書委員である彼女の手伝いを頼まれるものだと思っていた。
──ま、前から好きでした。付き合ってください
震えた声と足で顔を真っ赤にしながら手を伸ばす。
その勇気ある行動を思い出す。不安げな表情を見せる目の前の彼女のどこにそんな勇気があったのだろう。間違いなく手紙とか渡すタイプにしか見えない。人は見た目によらないということだろうか。
改めて前の彼女を見る。やはり少々地味な印象は受けるが、顔立ちは整っている。
学内でも隠れた人気があるそうだ。以前、クラスメイトが、そんな風な内容の話をしていた。
当時、彼女もおらず、特に海奈に対して悪い感情も持っていなかったので、特に深く考えることもせず、よろしくと答えた。
そもそも、自分のような男のどこを好きになったのか、気にならないわけではなかったが、そこまで知りたいわけでもなかったので聞くことはなかった。
「ちょっと寄り道してもいいですか?行きたいところがあるんです」
彼女は、パスタを食べ終わると少し笑いながらそう話した。
***
彼女に連れられた先にあったのは小さな神社だった。よく昔、遊びに使っていたので馴染みのある場所だ。
以前は、この辺りも綺麗に整えられていたのだが、今は来る人も少なくなったのか草木が伸び放題になっている。人は一人もおらず、少し寂れた印象を受けた。
夕飯を食べてから、少し歩いているうちに日が暮れたので、辺りは暗い。夏休み前だと言うのに、少しひんやりとした風を感じる。
神社の近くに座りやすそうな場所を見つけ、並んで座った。
「ここ、昔はよくお祭りをしててちょくちょく遊びに来てたんです。なんか懐かしくなって来たくなりまして」
「俺も地元だからけっこう来てたな」
「本当ですか?じゃあもしかしたら小さい頃会っていったかもしれませんね」
嬉しそうな声で海奈が、目を細めながら笑った。
それからお互いの子供の頃の話をしたり、出会う以前の話をしたり、他愛もないことで盛り上がった。
蝉の声も沈み、神社は静かだった。ただ、心地良い風が気持ちいい。
「あ、あの」
海奈の声が少し上擦る。明らかに緊張しているのが見てとれた。
「私達、付き合って半年以上経ちますよね。なのに、その……」
顔がだんだん桃からトマトみたいに赤くなる彼女は、不安そうな瞳でこちらを見つめている。
一瞬何のことを言っているのか分からなかった。しかし、少し経ってからあぁそういうことかと納得する。
俺は彼女の肩に手を置いて、顔をゆっくり近づけていく。
「あの!えっと、悠太くん、そ、そうなんですけど心の準備が……」
慌てた様子を見せる。
少し時間を置き、彼女は辺り一面の空気を勢いよく吸い込み、そして吐く動作を何度か繰り返す。
「も、もう大丈夫、です」
俺は顔を近づけていく。頬を染め、目を閉じた海奈の顔が映る。
そして、返ってきたのは柔らかい感触ではなく、ジンジンとした頬の痛みだった。破裂音のごとく響いた音に木々にとまっていた鳥達も一斉に飛び立つ。
え。どういうことだ。
「い、いきなり過ぎるでしょ!」
「…………」
状況がいまいち掴めず、唖然としたまま、彼女を見つめる。
それに、それはこちらの台詞だ。まったく現状が整理できないが、理不尽なことだけは分かる。
なんで俺が平手打ちされたのか分からない今のは絶対に正解な流れだったはず。おかしいというか海奈の様子、口調が変だ。心なしか瞳まで色が違って見える。
いつもの自信無さそうな不安げな瞳ではなく、どこか勝ち気そうな挑むような睨むような瞳だ。爛々とした炎を灯したような特徴的な色合いに近い。
「あたしは理沙。あんたの彼女は、あたしが乗っ取った。返して欲しかったら、あたしの言うことを聞くこと。いい?」
口調どころか声色まで変化している。
海奈は、こんなに甲高い耳に響くような声は出さない。どちらかと言うとか細くて柔和な声で話す。
「あたしはやりたいことがたくさんあるのに、病気で死んでしまったの。だからあんたの彼女の身体を一時借りるわ。文句は言わせない。【あたしのやりたいことリスト】が全部叶ったらちゃんと返してあげるから」
一方的過ぎる要求に言葉を失う。理不尽どころの騒ぎでない。この女、頭がおかしい。それになんだ。やりたいことリストって。普通にダサい。
変なのに絡まれてしまった。
海奈が女優魂に目覚めたわけでもないだろう。演技どころか嘘もつけないような彼女のことだ。理沙とか言う幽霊少女が憑依した方がまだ納得がいく。
俺は基本的にあらゆる現象を真っ向から否定するようなことはしない。どうでもいいからだ。幽霊を信じてるわけでも信じていないわけでもない。だから幽霊がいても、いなくてもどちらでも構わない。
「そうか。じゃあ俺は帰る」
「なんでそんな冷静なのよ!おかしいでしょ。彼女が乗っ取られてるのよ?取り返したいとか思わないわけ?」
「思わない」
「なんでよ」
「なんでと言われても……」
なんでだろうか。
悲しい気持ちがないわけではない、と思う。
しかし、それがとても弱い拍動なのは間違いない。
自分はなんて冷めた人間なのだろうかと自嘲したくなる。自分の彼女を奪った人間に怒りすら覚えないのだから。
いつも物事を遮に構え、俯瞰して生きてきたから自分の感情にすら自信が持てないのかもしれない。
「あぁもうなんでもいいわ!とにかく協力しないと彼女は返っててこないの!わかった?」
「もう好きにしてくれ」
「あっそ。じゃあ、好きにするわ」
そう、これが嵐のような少女──理沙との最初の出会いだった。