第九章 追跡
ジェラールとルクンは、ユラの両親に頼んで、隣に天幕を張っている叔父一家も呼んでもらい、ユラの失踪の経緯を説明した。皆は驚き、呆れ、特にセリームとエンフは、必ずユラを取り戻そう、と息巻いた。ジェラールたちが協力を申し出ると、彼らは喜んで受け入れてくれた。
ナスルは、故郷であるウラス氏族の夏営地に向かったに違いない。しかし、逃走する途中で、追跡をまくために、わざと違う道を進んでいる可能性もある。
ジェラールは独りごちた。
「足跡を辿っていく必要があるな……」
それには、足跡がどこから始まっているか、調べる必要がある。
「それでしたら、わたしたちがお役に立てると思います」
ヤーセミンがエンフを見て言った。
「姉が帰ってくる道は、いつも同じですから、その近くについている馬の足跡を辿っていけば、きっと追っていけるわ」
遊牧の民は、足跡が誰のものか、どんな動物のものかを見分ける達人だ。ジェラールはヤーセミンたちに足跡を見つけてもらえるよう頼んだ。
皆で天幕の裏に出ると、ヤーセミンとエンフは松明を手に、足跡を探し始めた。
「姉さんの足跡だわ。ここで途切れてる」
「こっちは見かけない馬の足跡だな。少なくとも氏族の馬のものじゃない。一、二……四頭いるな」
エンフが馬の足跡を辿る。調べた結果、足跡は西に向かっていることが分かった。セリームが言う。
「西といえば、ウラス氏族の夏営地の方角のはずだ」
「この足跡を追いながら、西へ向かいましょう」
ジェラールの声に、男たちは頷き、松明と武器を取り、馬に乗るために走り出した。
ジェラールは雑念を全て振り払い、ユラを助け出すことだけに、精神と肉体の全てを傾けることに決めた。湾刀を腰にはき、矢筒を背負うと、エンフから松明を受け取り、愛馬に跨る。
(ユラ殿、待っていてくれ)
準備をすませ、ツァク・ラックに乗ったルクンが、声をかけてきた。
「いこう、ジェラール」
「ああ」
ジェラールは答えると、掛け声とともに、馬を出発させた。
***
「いったん、女を降ろすぞ。だいぶ身体にこたえているはずだからな」
ナスルの声がすると同時に、馬が止まった。
馬の背から降ろされ、ユラは腹部から全身に伝わり、身を苛む不快な振動から、ようやく解放された。もっとも、さらわれたことに対する心の不愉快さだけは、どうしても消えてゆかないし、消えるわけがなかった。
巻きつけられていた布を解かれ、ユラの視界が開ける。目の前には、しゃがみ込んだナスルがいた。両脇には二人の男が立っている。男の一人が、こちらを見て、ナスルに問いかけた。
「おい、こんなところで休んでいて大丈夫か? いい加減、こいつの家族も、娘がいなくなったことに気づいた頃だろう」
「手強い連中もついていたしな」
もう一人の男が、右腕をさすりながらつけ加える。どうやら、ジェラールに腕を射られた男らしい。
ナスルは鼻で嗤った。
「あいつらに何ができるというんだ? それに、こんな夜中に、どうやって俺たちの痕跡を探し出す?」
ユラが手足の自由のきかない身体を、懸命によじって起こすと、ナスルが手を伸ばしてきた。思わず身を震わせたが、頭のうしろに手を回され、猿轡を取られただけだったので、ひとまずほっとする。
ナスルは整った顔に、邪悪な笑みを浮かべた。
「安心してください。あなたを氏族の夏営地に連れ帰り、正式に妻とするまでは何もしませんよ」
「優しい振りをするんじゃないわよ。この、恥知らず! それに、わたしはあなたの妻になんかならないわ! 妻になるくらいなら、舌を噛み切って死んでやる!」
ユラは込み上げる怒りに任せ、思わずナスルを面罵していた。ナスルの眉が、ぴくりと動く。
「ユラ殿、大人しくしてくださらないと、またさっきのようにして運びますよ。素直になれば、わたしの馬に相乗りすることを許してあげるのに」
「誰があなたと相乗りなんかするもんですか! それに、あなたたちは失敗するに決まってる。ジェラール殿が必ず助けにくるわ」
言っていて、ユラは自分でも不思議だった。家族ではなく、ジェラールの名が真っ先に出るなんて。だが、口にして初めて、ユラはそれが自分の本音であることに気づいた。
(わたし、もしかして――そんな、まだ出会って間もないのに……)
ユラは内心で動揺する。今まで、どんな男を前にしても、心が動くことはなかったし、頼りたいとも思わなかった。それなのに、ジェラールのことを考えると、もう一度姿を見たい、助けにきて欲しいと、強く願ってしまう。
一方、唐突にジェラールの名を出され、ナスルは苦虫を噛み潰したような顔をする。
ナスルが何か言いかけた時、辺りの様子を窺っていた男の一人が声を上げた。
「おい、見ろ! あれは松明の火だ! 東の方角から近づいてくるぞ!」
ユラは男の指差す方に目を凝らした。点のような複数の小さな灯火が、はっきりと見える。ユラの胸が希望に湧き立った。
***
ジェラールとルクン、それにユラの親族たちの総勢七名は、前方を松明も持たずに疾駆する三騎の騎馬と、一頭の駄馬を追いかけていた。
ジェラールたちがここまで早く追いつけたのには理由がある。ひとつは、足跡の捜索が、意外なほどに順調に進んだこと。これは、今が夜だということをナスルたちが過信しすぎ、足跡を消さずに進んだからだ。
もうひとつは、荷駄を連れたナスルたちに対し、ジェラールたちは余分な荷物を持たず、全速力で駆け続けたこと。
とはいえ、ユラのことが心配だ。ナスルたちの動きは、さっさと止めるに限る。
「ルクン!」
ジェラールは松明をルクンに渡し、弓矢を構えると、ナスルたちが進もうとしている空間に、矢を放った。
矢が大地に突き刺さる。驚いた一頭の馬が竿立ちになった。連中が馬をなだめている間に、ジェラールたちは、ついに彼らに追いついた。ユラがどこにもいないのを見て取ると、ジェラールは駄馬に駆け寄る。
「ナスル殿、荷物を改めさせていただきたい。ご一家の大切なものが、あなたがたに盗まれた可能性がある」
ユラの親族たちも駄馬を取り囲む。彼らの持つ松明に照らし出されたナスルは、顔を引きつらせた。
「な、何を根拠に……」
「構いません」
ジェラールの声を合図に、セリームが馬から降りた。駄馬に積まれている、女人の背丈ほどの、布にくるまれた荷物を、地面に下ろす。布が解かれ現れたのは、猿轡を噛まされ、両手両足を縄で縛られたユラだった。
「ユラ!」
ユラの親族たちは、すぐさま猿轡を外し、いましめを短刀で切って解いた。
「もう言い逃れはできないぞ」
顔に怒りをにじませ、ジェラールはナスルの前に立ちはだかる。ナスルは逃げ切れないと悟ったのか、湾刀を抜き放った。連れの男たちも湾刀を抜く。
「こいつらは俺に任せろ」
松明を誰かに預けてきたのだろう。鉄杖を両手に構えたルクンが、男たち目がけてツァク・ラックを走らせる。男の一人とすれ違い様、ルクンは突き出された湾刀を、鉄杖で絡め取った。湾刀が落ちる。その隙を逃さず、ルクンは鉄杖を男の鳩尾に向けて打った。男が落馬する。
もう一人の男は、ルクンの技の冴えを目の当たりにして、さすがに怯んだようだったが、雄叫びを上げながら、彼に斬りかかった。ルクンは渾身の斬撃を軽々と受け止め、跳ね返す。勢いそのまま、男の首に鉄杖を打ち込む。薙ぎ倒された男は落馬し、勝負はついた。
仲間たちが呆気なくやられてしまったことで、ナスルは顔をこわばらせた。だが、ジェラールが相手なら、どうとでもなると思ったのか、こちらに向き直る。
「なぜ、ユラ殿にあんな真似をした」
ジェラールの問いに、ふっと、ナスルが笑う。
「わたしの求婚を断ったからだ」
「だからといって、彼女を無理矢理さらっていい理由にはならない!」
「ミル・シャーン、だったか。貴様の氏族は、ずいぶんと甘ちゃんぞろいのようだ。女も名誉も、自力で勝ち取るのが遊牧の民だろうが」
「貴様なような下衆が、遊牧の民を語るな! 第一、ユラ殿は貴様には不釣り合いだ!」
「ほう、自分のほうがふさわしいとでも言うつもりか? 求婚することすらできない腰抜けのくせに」
痛いところを突かれ、ジェラールは唇を噛んだ。だが、こんな奴に好き勝手に言われてなるものかと思い直す。
「誰を夫とするかはユラ殿が決めることだ。彼女の意思を踏みにじった時点で、貴様に夫となる権利などない!」
「撤回しろ!」
戦端が開かれた。
二人は馬上で湾刀を操り、打ち合う。二合、三合と斬り結ぶうちに、ジェラールはナスルの剣技が水準以上であることを理解した。剣術より弓術のほうが得意なジェラールにとっては、正直、分の悪い戦いだ。
(長引かせるわけにはいかないな)
ジェラールは、打ち下ろされたナスルの湾刀を受け流す。暗闇に、火花が散った。次いで打ち出された一撃が、ジェラールを襲う。
「ジェラール殿!」
ユラの叫び声が響く。ジェラールのかぶっていた帽子が、宙を舞った。すんでのところで、ジェラールは攻撃をよけていた。ナスルの繰り出す攻撃を、時には受け、時にはかわし続ける。
そのうちに、ジェラールの目に光が宿った。ナスルの剣筋が見えてきたのだ。予想通りの場所に打ち込まれた斬撃を、大きく身を反らしてよける。その反動を利用して、身体を戻す。同時に、ジェラールは刀身を振り下ろし、ぴたりとナスルの喉元に当てた。
「首を掻き切られたくなければ、武器を捨てろ」
ジェラールが凄みをきかせると、乾いた音とともに、ナスルの手から湾刀が落ちた。
ナスルを馬から降りさせ、縄で縛っていると、ルクンが余裕の表情で馬を寄せてきた。
「こいつの連れは、二人とも気絶させた。あとはどうする?」
「縛り上げたあとで、目を覚まさせよう。俺たちはこいつらと違って、人を荷物みたいに扱う趣味は持っていないからな。その上で、チェリク氏族に連れ帰って、氏族長に処罰を決めてもらわないとな」
二人が相談していると、セリームとエンフに身体を支えられ、ユラが歩いてきた。
「ジェラール殿、ルクン殿、お二人とも、ありがとうございました」
深く頭を下げるユラに、ジェラールは緩く首を横に振って見せた。
「いいえ、当然のことをしたまでです。それよりも、ユラ殿、お身体のほうは大丈夫ですか?」
ユラの瞳が、気丈な光を放つ。
「ええ、少し気持ち悪いですけど。……でも、身体が言うことをきいてくれないんです。情けないわ」
「無理をなさらず、今夜はゆっくり休んでください」
ジェラールは、ほほえんだ。ユラの姿をまた目にすることができて、嬉しかった。
ジェラールたちは、ユラと縛られたナスルたちを連れ、チェリク氏族の夏営地へと帰っていった。